夜が明け、スカサハは夜の見張りの役目を終え、自分の天幕に戻るため歩いていた。イザーク解放軍の陣内の者達は、スカサハの姿を見やると、にこやかに挨拶する。スカサハもそれに気分よく答えつつ、陣内を歩く。
しばらく歩いていると、皆が怪訝な顔をしてスカサハに挨拶するようになる。何か自分におかしいところでもあるのだろうか。そう思い、立ち止まって自分の身体を見下ろす。特別おかしいところはないと思う。
「あにうえ!」
うしろでそう呼ぶ声が聞こえる。イザーク解放軍は、イザークで帝国に虐げられてきた者たちが参加している。兄弟親子で参加している者らも少なくない。多分、そういう者たちが騒いでいるのだろう。スカサハは自分とは全く関係ないと思い、また歩き出そうとした。すると、
「あにうえ!」
先ほどよりも声は近くなっている。スカサハは振り返ってみた。するとうしろからヨハンが一生懸命、スカサハのほうへ駆けて来ていた。先ほどの声の主もヨハンのようだ。はて、ヨハンの兄など解放軍に参加していたのだろうか。スカサハが不思議に思っていると
「あにうえ、朝靄が緑をかすめ美しい朝ですね」
そう言って、ヨハンがスカサハの前にまわりこんできた。
スカサハはヨハンの兄の姿を探して、周りを確認したが、遠巻きにイザークの戦士がこちらの様子を窺っているだけで、ヨハンが兄と呼ぶような者はいそうにない。
「誰があにうえなんだ?」
スカサハは不思議に思い、ヨハンに訊いてみた。
「それはもちろん、スカサハ殿のことですよ」
ヨハンは楽しそうに、両腕を広げて言った。
「なんでオレが……?」
自分はいつ、ヨハンの兄になったのだろうか。スカサハはまたヨハンに訊ねた。
「それは、義兄上が我が愛しき女神の兄君だからです。おお、ラクチェ罪なひと」
身をくねらせてヨハンが言う。
つまり、ヨハンはラクチェが好きで、その兄であるスカサハを義兄上と呼びたい、いや、呼んでいるのだろう。スカサハがそうやって頭の中を整理している間も、ヨハンはラクチェが気高く美しいだのなんだの褒め続けていた。どうしてあんなのがいいのか、スカサハは理解不能だったが、ヨハンが自分を義兄上と呼びたいのならそれは別にいいかと考えた。
「オレに何か用だったのか? こんなところまで来て」
スカサハはヨハンの口上を遮って訊いた。ここはイザークの陣である。ヨハンが陣を張っているドズル軍の陣からはけっこうな距離がある。
「あ、いえ。お姿をみかけたので、挨拶をしようと思い、義兄上を追いかけるうちに」
ヨハンが優雅にお辞儀をする。
そうか。スカサハが気付かなかったせいで、ここまで来てしまったのか。それは少し悪いことをしたなとスカサハは思った。
「そうか。気付かなくて悪かった」
「いえ、私の方こそ気がまわらずに。申し訳ない」
スカサハが謝ると、ヨハンが慌てて謝り返してきた。ヨハンは律儀な人物なんだな、とスカサハは思った。
「スカサハ、ヨハンさんも、おはよう」
横からそう声をかけてきたのは、ラナだった。
「ああ、ラナ。おはよう」
スカサハはラナのほうを振り返った。
「ああ、蒲公英の君、おはようございます」
ヨハンがそう言って、ラナに挨拶をした。たんぽぽのきみ? 耳慣れない言葉を聞いて、スカサハはヨハンをみつめた。
「ああ、ラナ殿は陽だまりをさらに優しく彩るたんぽぽのようだと思うので、そうお呼びしているのです」
スカサハの視線に気付いたヨハンが、ニコニコとそう言った。
そういわれてみれば、たしかにラナはたんぽぽっぽいが、そんな呼び方をするヨハンは少し感覚が変なのかも知れないとスカサハは思った。そしてそこまで思って、ラクチェのことを好きなのだから、それも当然なのかもと考え至った。
ラナはあまり気にした様子はなく、笑顔を浮かべている。それなら自分が口出しすることではない。そうスカサハは思った。
「ヨハンさん、こんなところにいていいの? ラクチェならもう起きて訓練してるけど」
ラナがヨハンに言う。
「やや、そうですか。ご親切にありがとうございます蒲公英の君」
ヨハンがラナに恭しくお辞儀をした。
「それでは、義兄上、名残は惜しいですが、これにて失礼いたします」
ヨハンはそういうと、ラクチェの天幕があるほうへ走っていった。もともとラクチェに用があってイザークの陣まで来ていたのか。スカサハはヨハンがイザークの陣にいた理由がわかり、自分のせいだけではないことに安堵した。
「ちょっと、スカサハ。あにうえって何?」
ヨハンの姿が完全に見えなくなってから、ラナがスカサハに厳しく問いただしてきた。
「え。オレのことだけど」
なぜかラナが不機嫌なようなので、スカサハはなるべく刺激したくないなと、思いながら答えた。
「そんなことは、わかってるわよ。ラクチェが聞いたら怒るわよ」
ラナがすでに怒っているとスカサハは思ったが、それは言わないことにした。
「ヨハンがそう呼びたいって言うから、いいかと思って」
「いいかって、スカサハがラクチェとヨハンの仲を認めてることになるのよ、いいの?」
スカサハは正直、なんでラナがそこまで怒るのかわからなかった。なので素直に、いいんじゃないかと、答えた。
ラナはその回答に不満気だったが、スカサハがいいって言うならしょうがないわね、と納得してくれたようだった。
「ラクチェが決めることだものね」
そういいながらも、ラナは不安そうだった。確かに、今のラクチェは不安定なところがある。だがそれは、ラクチェ自身が乗り越えていくことだと、スカサハは思っている。ラクチェがその過程でスカサハに助けを求めたら、応じてやればいい。
「大丈夫だよ」
スカサハはそう言って、ラナの頭に手をのせた。
「そうね」
ラナはスカサハに笑顔を見せた。ラナの笑顔はたしかに花のようだ。そんなことに気がつけるヨハンならば、義弟になるのはかまわないとスカサハは思った。
了