異国の花


 ラクチェは内心、面白くなかった。
 それというのも、せっかくガネーシャの祭りまでやってきたというのに、宿から外には出てはいけないと、シャナンにきつく言われていたからだ。とはいっても、シャナンと一緒ならば街を歩いてもいいことになっている。シャナンが偵察から帰ってくれば、ガネーシャの祭りを見物することはできる。それを待ち望んでいるのか、デルムッドとスカサハの二人は小遣いを出し合って、セリスに何か土産を買おうと相談しているようだった。
 今回はシャナン、ラクチェ、スカサハ、デルムッドが、ガネーシャまで偵察に来ていた。偵察と言っても、シャナンがガネーシャに潜む解放軍の者との接触、定期連絡するのが主な目的であり、子どもたちは見聞を広めるため特別に連れてこられた。グランベル人の外見が濃いセリスたちは留守番になってしまったが、こういう機会は増えてきている。以前もオイフェについてレスターとデルムッド、セリスが出かけたこともある。ティルナノグに解放軍として旗揚げし始めてからは、各地から兵力を糾合したり、各国の現状を窺い知ったりするために、そういうことが多くなってきたのだ。
 しかし、保護者なしでは自由に出歩けないのがラクチェは不満だった。もう十七にもなったのだ。自分の身は自分で守れる自信がある。実際ラクチェの剣技は日を追うごとに冴えわたり、師であるシャナンに迫りつつある。それなのに、いつまでも子ども扱いするシャナンやオイフェに不満をつのらせていた。
「つまんなーい」
 ラクチェはベッドに仰向けに寝そべると、足をバタつかせた。
 窓から見えるガネーシャの街なみは、様々な出店が立ち並び、多くの人々が行きかっていた。それがよけいラクチェを苛々させる。
「ラクチェ、デルムッドが困ってるから、それやめろよ」
 スカサハが心底呆れかえったように言った。
 ラクチェは言葉の意味が分からず、上半身を起こして、スカサハに訊ねようとしたところ、顔を赤くしたデルムッドがうつむいているのが目に入った。そこで、自分がスカートだったことを思い出して、はっとスカートの裾を押さえた。それから小さくデルムッドに謝る。
「シャナン様なら、もうすぐ戻ってくるよ」
 少し困ったように笑いながらデルムッドが言う。
「そうじゃなくて、どうして私たちだけで行動しちゃいけないの?」
 ラクチェは、むーっと頬を膨らませた。
「あたりまえだろ。俺たちが勝手な行動したら皆に迷惑がかかるんだから」
 ラクチェをスカサハがたしなめてくる。
 スカサハの言う皆とは、言うまでもないが、二年前に結成されたティルナノグに拠点を置く解放軍のことだ。今はまだ各地の反帝国勢力との協力関係を強くしているだけだが、いずれ力をつければイザークを帝国の支配下から解放するつもりだ。そのためには、今こんなところでつまずくわけにはいかない。
「そんなことわかってるわよ。でも、もう私たちも一人前よ。いつまでも子ども扱いされたくないわ」
 ラクチェが語気を荒くして言う。
「そういうところが子どもなんだよ」
 わずらわしそうにスカサハが言った。
 それにカッときたラクチェは、スカサハに枕を投げつけ、バカと言い放つと部屋を飛び出した。
 宿屋の出口に来たところで、デルムッドに呼び止められる。
「ラクチェ、勝手に外に出ちゃいけない」
 出口をふさぐようにデルムッドがラクチェの前にくる。
「デルムッドは、いつまでも子ども扱いされて、悔しくないの?」
 デルムッドを睨みつけるようにラクチェは言った。
「悔しくないって言ったら嘘になる。でも、軽はずみな行動はよくないことは、ラクチェにも分かるだろ」
 言葉を選ぶように、ゆっくりとデルムッドは喋った。
 デルムッドの言葉に、ラクチェは頭に上った血が下がっていくのを感じた。よくよく考えれば、スカサハの言ったことに一々腹を立てているようでは、本当にスカサハが言ったように子どもとかわらないではないか。それに外に出るにしても、何も持たずに飛び出してしまったので、荷物をとりに戻るという間抜けなことをしなければならない。できればそんなことは避けたい。決まりが悪いが、ラクチェは部屋に戻ることにした。デルムッドが一緒にいてくれたので、幾分か気持ちが楽だった。
 部屋ではスカサハが手持ち無沙汰に、腰の剣をいじくっていた。今、スカサハが差している剣は、いつも鍛錬の時に使う銀の大剣とは違う小さめの剣だ。なじまないのだろう、朝からしきりに気にしていた。それはラクチェも同じで、ラクチェが持っている剣もいつも使っている勇者の剣ではない。ラクチェが戻ってきたことに気がつくと、スカサハは剣をいじるのをやめた。
 スカサハは何も言わなかった。だからラクチェはベッドに腰かけ、外を見ていることにした。
ラクチェが落ち着くと、デルムッドとスカサハは話し合いを再開したようだった。セリスへのお土産の相談を再開したのだろう。小遣いとしてもらった額は微々たるものだ。自分もいくらか出したほうがいいのかと考えたが、それだったらラナやレスターにも買いたいし、そんなことを言ったらティルナノグにいる皆の分を買って帰りたい。そんなに大人数に買えるほどの額は、スカサハとデルムッドの分を合わせてもないだろう。エーディンに言われたように、自分が欲しいと思ったものを買おう。そう考えた。
 外は相変わらずの賑わいだった。ラクチェの苛々は、なかなか治まらなかった。


 太陽が天頂を過ぎたころ、シャナンが戻ってきた。
「お前たち、おとなしくしていたか」
 シャナンはラクチェを見ながら言った。それがラクチェの気に障る。確かに飛び出しそうにはなったし、文句を言っていたのも自分だけだが、一番の心配の種が自分であることのようかな態度がラクチェにとって不快なことだった。スカサハやデルムッドだって、本当は外に出たかったはずなのに、まるでラクチェだけが悪いように感じられた。
 スカサハが何か言いたげにしていたが、シャナンの前では黙っていた。それもラクチェは面白くなかった。言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに、と心の中で毒突いた。
 そんなわけで祭り見物はぴりぴりした空気が漂っていた。少なくともラクチェはぴりぴりしていた。シャナンたちが何を考えているのかも分からなかった。
 マントコートの中の剣が揺れて、居心地が悪い。
 大路の両脇には所狭しと露天商が並び、食べ物、装飾品、日用雑貨など、様々な品物を売り買いしている。そんな人々の活気がラクチェを苛立たせる。帝国の圧政を受けているのに、なんと暢気なのだろうか、ラクチェの苛々は募るばかりであった。
 それを察してなのか、シャナンがラクチェに声をかけてくる。
「人が多いから、はぐれないようにな」
 それを聞いてラクチェは、名案を思いついた。わざとはぐれてしまえば自分ひとりで行動できると思い至ったのだ。
 今、スカサハとデルムッドは露天商に何かを訊ねているようだし、シャナンはそれを見守っている。人の波がラクチェとシャナンたちを隔てる。これ幸いとラクチェは人々の間にそっともぐりこんで、シャナンたちから離れた。
 しばらく歩いて、振り返る。もうシャナンたちの姿は見えなかった。ラクチェはなんともいえない解放感に包まれた。あれはだめ、これはだめと、誰にも言われないし、剣の腕を比べられる相手もいない。知らず知らずのうちに溜め込んできていたのかもしれないものから解き放たれた気分だった。ラクチェは今、自由だと思った。
軽い足どりで露天商を見物しながら歩く。
 こんなにいい気分になるなら、あの時飛び出していればよかった、とまで思った。
 ラクチェが鼻歌まじりに歩いていると、角から急に人が飛び出してきて、突き飛ばされる。避ける間などなかった。そのまま後ろに倒れこむ。
「わりぃ、大丈夫か?」
 ぶつかってきた相手は平気だったようで、ラクチェに手を差し出す。
「なにするのよ!」
 気分のいいところを邪魔されたラクチェは、思いっきり怒鳴りつけた。
 ぶつかった相手はがたいのいい青年だった。ラクチェより少し年上だろうか。
「だから、わりぃって……」
 青年はそう繰り返すと、ラクチェの顔をまじまじと見つめた。ラクチェを見つめる青年の顔はぽかんとしていて、かなりまぬけだ。それでも自分の顔をまじまじと見つめられるのは不快だ。ラクチェが、また文句の一つでも言ってやろうかと思ったとき
「ヨハルヴァ様、逃がしませんよ」
 ラクチェの後ろから声がした。
「げっ、囲まれた」
 青年の焦った声に反応して、周囲を見回すと青年とラクチェは帝国兵に囲まれていた。
 反射的にまずいと思い、倒れた姿勢のまま逃げ道を探していると
「おい、お前、なぜ剣を持っている!」
 頭上からそんな声が降ってきた。
 驚いて、ラクチェが自分の姿を確認すると、めくれたマントコートから、剣が堂々とその姿を現していた。おそらく転んだ拍子にマントコートがめくれたのだろう。浮かれて気を抜いていたちょっと前の自分を恨めしく思った。
「怪しい奴め、城までこい」
 帝国兵が、ラクチェから剣を奪い、無理矢理立ち上がらせる。
 なんとか逃げ出せないか考えるが、帝国兵の数が多いのと、ちょっとした騒ぎになっているのか、人が続々と集まってきて逃げ道がない。歩き出してから隙を見るしかないと考えていると
「そいつは関係ないだろ、放してやれよ」
 がたいのいい青年が、そう言った。青年は両脇を帝国兵に囲まれていが、ラクチェのように無理矢理押し付けられている様子はない。帝国兵に追われていたようなのに、兵士は青年に敬意をはらっているように感じられた。もしかしたら青年は結構いい身分なのかもしれない。ガネーシャの祭りを一人で廻りたくて逃げ出してきたのを捕まったのだろうか。自分と同じだと、ラクチェは思った。
「しかし、最近は反乱軍が暴れております。兵士でもないのに帯剣している者を捕まえないわけにはいきません」
 厳しい口調で、帝国兵が青年に意見する。
 青年は舌打ちすると、観念したのか、おとなしく帝国兵に従った。
 ラクチェを捕まえて歩き出した帝国兵は、なかなか隙をみせない。他の周りを囲む帝国兵も同様だった。よく訓練された兵士たちなのだろう。ラクチェが視線を配る先には、必ず帝国兵がいた。
 結局ラクチェは逃げ出すことができずに、ガネーシャ城まで連れてこられてしまった。
 城門の前に、腕組をしながら茶色い髪の青年が、数人の兵を率いて立っていた。
「なんで兄貴がこんなところで待ってるんだよ」
 がたいのいい青年が、苦々しく言葉を吐いた。
 よく見れば、がたいのいい青年も茶色い髪をしている。兄貴と呼ぶからには兄弟なのだろう。
「私の兵がお前を探したのだから、私がここで首尾を確かめてもおかしくないだろう」
 兄貴と呼ばれた青年が、がたいのいい青年にそう返事する。がさつな印象があったがたいのいい青年とは違い、兄貴と呼ばれた青年は物腰が柔らかで優美だった。私の兵というからにはそれなりの身分の者なのだろう。
そういえば、がたいのいい青年はヨハルヴァと呼ばれていなかったか。その名前は聞いたことがある。ラクチェの頭の中で点と点がつながりそうになってくる。ヨハルヴァ、帝国支配下のソファラの領主の名前ではなかっただろうか。兄はヨハン、帝国支配下のイザーク城の城主ではないか。点と点がつながった。
「貴様ら、ドズルのヨハンとヨハルヴァか!」
 ラクチェは怒鳴って、拘束から逃れようと暴れ出した。
 ラクチェにとって、帝国は許しがたい敵だ。シャナンに助けられたあの日から、ラクチェは帝国を倒すことだけを目標に剣の鍛錬を重ねてきた。ラクチェを助けるために帝国兵に殺されたイザークの民の無念を、決して忘れないと誓ったのだ。イザークを支配しているドズルはラクチェにとって怨恨の対象である。そのドズルの指導者であるヨハンとヨハルヴァを前にして、落ち着いてられるほどラクチェは冷静ではない。ここでどちらかと刺し違えてもかまわないとも思った。
 しかし、ラクチェが暴れても五人がかりで押さえ込まれているので、ヨハンにもヨハルヴァにも危害を加えることはできなかった。
 ラクチェの様子を、身動きせずに観察していたヨハンと思われる者が、
「美しいお嬢さん、どうか落ち着いてください。そのように怒っては、このバラも驚きのあまり、しおれてしまうことでしょう」
 そう言って、胸に差してあったバラを、ラクチェの顔面に突きつけた。薄紅色の花びらが可憐な小さなバラだ。普段のラクチェならそんなことをされたら、何をするのだと払いのけるところであったが、帝国兵に腕を圧迫されているので、鼻先にバラを差し出される。そのバラのりんごのような甘酸っぱい香りが、ラクチェの鼻孔をくすぐる。いい香りだ。ラクチェはその香りを嗅ぐうちに、暴れるのを忘れてしまった。
「よい香りでしょう。このバラのように瑞々しい香をはなつ、そんなあなたのお名前を訊かせてもらえないでしょうか、女神よ。私はヨハン。あなたの焼けるように熱く、そして星のように輝く美しい瞳に魅せられた、憐れな子羊です」
 ヨハンは熱に浮かされたように、足元をふらふらとおぼつかせ、二、三歩下がりながら言った。それは芝居がかったように大げさな動きで、珍妙だった。
「ラクチェ……よ」
 ラクチェはヨハンの態度に、すっかり毒気を抜かれて、思わず正直に答えてしまった。言ってからまずいことをしたと思ったが、セリスのようにイザーク中に知れ渡っていてお尋ね者よばわりされているわけでもないし、ラクチェの名前を彼らが知ったところで解放軍につながる何かが暴かれるわけではないので問題ないだろうとラクチェは考えた。
「おお、ラクチェ。ラクチェというのですね、女神よ。なんと甘美な、それでいて凛とした響き。ああ、まさにあなたにふさわしい名だ」
 ヨハンは、今度はラクチェに近付いてきて、ラクチェの頬に手を添え、ラクチェの耳飾りを鳴らした。
「さわらないでっ」
 母のつけていた耳飾りだ。シャナンがラクチェの母アイラから必ず生きて迎えに来る証として託されたものだ。これがあるうちは、母は生きているとラクチェには感じられる大切な物だ。帝国の者に触れられるのは、許しがたいことだ。ラクチェは怒って、顔を背けヨハンの手から逃れようとした。
「ああ、どうか怒りをおさめてくれたまえ。だが、その怒れる顔も美しい」
ヨハンは両手を広げると万歳をした。
 何なのだこの男は。さっきから調子を狂わされてしょうがない。頭のねじが一本、いや十本くらい飛んでしまっているのだろうか、とラクチェは思った。確かに、ティルナノグでオイフェに礼儀作法として、いついかなる時も優雅に、と習った。ラクチェはあまりできなかったし、覚えようともしなかったが、それはまあ別の話だ。デルムッドが一番そういうことは得意で詩まで詠むが、こんなに自分に酔っているようなことをする男は、ラクチェの周りにはいなかった。新鮮といえば新鮮だが、こんな新鮮さは知りたくなかった。というのがラクチェの正直な感想だ。
「兄貴、いいかげんにしろよ」
 ヨハルヴァがゲンナリした顔で言う。周囲の兵たちは慣れた様子でヨハンを見ているが、ヨハルヴァは違った。ラクチェは帝国の貴族は皆こういうヨハンのような者ばかりと思いかけていたが、ヨハルヴァの様子を見るとそういうわけではないことがわかって、自分の感覚がずれているわけではなさそうで安心した。
「ところで何故ラクチェをここまで連れてきたのだ?」
 先ほどとは打って変わった厳しい表情で、ヨハンが兵士に問いただした。ヨハルヴァにたしなめられなかったら、あの美辞麗句を並べ続けたのではないかと思うと、疲れが押し寄せてくる。ラクチェは心の中でヨハルヴァに感謝した。
「は。この娘がこの剣を持っていて、反乱軍の一味かもしれぬので、引っ捕らえてまいりました」
 緊張したように兵士がラクチェから取り上げた剣をヨハンに見せる。
 ヨハンはその剣を受け取ると、しばらくの間眺めて、驚いたように声を上げた。
「これは、これは。ヨハルヴァに鑑定してくるように頼んだ剣ではないか」
 兵士たちがどよめく。
「なっ……」
 ラクチェが否定しようと声を出しかけると、ヨハンはこっそりラクチェに片目をつぶってみせた。ラクチェは開いた口を閉じた。別にヨハンのその行動に何か察したわけではなく、行為に閉口しただけだったが。
 ヨハルヴァは、兄が急に変なことを言っているものだから、目を白黒させている。ラクチェから見てもわかるくらいだ。
「この傷が間違いないと言っている」
 ヨハンが剣の柄についている傷をなでながら、兵士達に見せる。
「で、ですが、ヨハン様はどうして、こんな剣をヨハルヴァ様に鑑定させようとしたのですか?」
 兵士達の間に動揺が走る。
「ヨハルヴァは、モノを見る目が無い。少しは勉強したほうがいいという兄からの老婆心からだ」
 ひとりでなんども頷きながらヨハンが言う。
 それを聞いたヨハルヴァが、うるせーなと小声でもらす。その顔はもう混乱してはおらず、ヨハンの言動を見守っていた。ラクチェは、未だに何が起こっているのかわかりかねていた。
「しかし、これはこの娘が持っていたものですが」
 兵士がヨハンに詰め寄る。
「大方、掏られでもしたんじゃないか。なあ、ヨハルヴァ」
 自信たっぷりという顔でヨハンがヨハルヴァに同意を求める。
「あー、まあな。出会いがしらにラクチェとぶつかったからな。その時、盗られたんだろうな」
 頭を掻きながらヨハルヴァが答えた。
「そうか」
 何か言いたげな兵士たちを尻目に、ヨハンは満足そうに頷く。
「ここで皆に頼みがあるんだが」
 ヨハンが片手を軽く挙げ、兵士たちの注目を集める。
「ヨハルヴァがこんな少女の掏りにあったということが知れ渡ってしまうと、ヨハルヴァにとって不名誉なことだと思わないか」
 ゆっくりとヨハンが兵たちの顔を見ながらしゃべる。
「だから、このことは口外しないでほしいのだが、かまわんよな」
 口調は緩やかだったが、ヨハンの眼は有無を言わせぬ強さがやどっていた。
 兵士達も承諾するしかなかったようだった。
 口々に約束する兵士に、ヨハンはやわらかい笑みを浮かべて感謝していた。
「というわけだ。おお、ラクチェ、別れは悲しみと辛さの舞曲。名残惜しいが、これで君とはお別れだ」
 ヨハンがラクチェの足元にひざまずく。
 すると、ラクチェを押さえつけていた帝国兵が、ラクチェを解放した。
「どういうこと」
 訳がわからないラクチェがそうこぼすと
「ラクチェ、お前を逃がしてやるってよ」
 ヨハルヴァがそう教えてくれた。
 なんだかよくわからないうちに自分は逃がしてもらえるのか、そうとなれば早くここから離れるべきだろう。剣は取り上げられてしまったが、今は自分の身のほうが優先だ。ラクチェが踵を返そうとすると、腕をつかまれる。びっくりして動きを止めると、ヨハンがラクチェの手をとって
「いずれまた会いましょう、女神よ」
 そう低く囁いてラクチェの手に口付けを落とした。
 次の瞬間、小気味好い音が響く。ラクチェがヨハンの頬を平手打ちした音だった。
 ラクチェはヨハンをぶった手を引っ込めると、ばつが悪そうに後退りした。
「きゅ、急にそんなことする、あんたが悪いんだからね」
 それだけ言い捨てると、ラクチェは走り去った。
 ラクチェは思いっきり走って、街中まで逃げてきた。追っ手の者がついてきている様子もない。それでも胸がどきどきとする。きっと走ったせいだとラクチェは思った。
 シャナンたちとはぐれた場所まで戻ろうとする途中、急に肩をつかまれる。驚いて振り向くと、シャナンが険しい表情でラクチェを見下ろしていた。
「す、すみません、シャナン様」
 ラクチェは慌てて謝った。
「……よかった」
 シャナンがため息をついて、ぐったりした様子でぽつりと言った。
「シャナン様、みつかったんですか」
 シャナンの後ろから、スカサハとデルムッドが駆けつけてきた。デルムッドはラクチェの顔を見ると、笑顔になり無事だったことをよろこんでくれた。スカサハは何も言わなかったが、一応、心配はしていてくれたことがなんとなく分かったので、ラクチェも何も言わなかった。
 ラクチェが、シャナンたちに事の一部始終を話すと、ティルナノグに帰ってから、シャナン、オイフェ、エーディン、ラナの順に怒られた。セリスにはラクチェはすごいなと、笑われてしまった。ラクチェは怒られ慣れているので、説教は右から左に流していたが、セリスに笑われたのはちょっぴり恥ずかしかった。
「でも、ラクチェが帝国兵を前に、何もしないで帰ってきたなんてすごいね」
 セリスがニコニコしながら言った。
「セリス様、笑い事じゃありませんよ。ラクチェったら、今頃どうなっていたかわからないのに」
 ラナはまだ怒っている。
「でも無事で本当によかったよ」
 デルムッドが心底安心したように言った。
「そのヨハンってすごいな。ラクチェに惚れたんじゃないのか」
 レスターは無責任にはやし立てている。
「……」
 スカサハが何も言わずにラクチェの頭をぽんぽんとなでる。
 こんな風にラクチェはしばらく、皆のおもちゃにされていた。
「今度会ったら、ただじゃおかないんだから」
「誰を」
 ラクチェのつぶやきに、スカサハが敏感に反応するが、ラクチェはそれに気付かないふりをした。



2010.5.13
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