ラナは怪我人のために設置された、救護班の大きな天幕の中を忙しく走り回っていた。杖を使って大きな怪我人の傷を治療したり、軽傷の者には薬草を煎じたものを塗ったり、包帯を交換したり、汚れたシーツや服を取り替えたりしていた。実際に自分でもやっていたが、それらのことを他の救護兵にも指示することもしていた。他にも今日の夕食の仕度の指示やら細々とした雑用など、やることはいっぱいで、余計なことを考えている余裕はなかった。
「ラナ様、傷の治りが遅いものがいるので、診てあげてくれませんか?」
「わかったわ」
ラナは声をかけてきた救護兵に連れられ、怪我人の許まで行った。寝かされている怪我人に声をかけ、包帯をとき怪我の状態を確認する。肉が赤く裂かれた生々しいままの傷口だった。
「あなた、静かに寝てないで、動き回ったりしたんじゃないの?」
ラナは怪我人に厳しい口調で言った。
怪我人は一言ぽつりと謝ると、目を閉じてしまった。ラナは困ったなと思ったが、杖を使ってあげるから、自分がいいというまでは、絶対安静にしていることと、怪我人に約束をさせた。
ラナは持っていたライブの杖に意識を集中する。杖の先端についている宝玉が光り、怪我人の傷口がみるみるうちにふさがっていく。それと同時にラナの身体に疲労感が広がっていく。ラナの身体から力が抜けていく。まずい、魔力が底をついている。ラナがそう思ったのと同時に眩暈に襲われ、倒れそうになるが、倒れている場合じゃないと、気力を保った。
ふらつくラナを見て、一緒に居た救護兵が心配そうに声をかけてくる。それに大丈夫、魔力がなくなっただけよと、ラナは微笑んだ。すると、それならば休んで下さいと言われてしまった。
「でも、まだまだ仕事があるから」
ラナが躊躇していると、マナが何かあったのかと寄って来た。救護兵がすぐさまマナにラナの魔力がないことを告げる。それを聞いたマナも、ラナに休むように言ってきた。
たしかに今は命に係わるような怪我人はもういない。杖が必要なら、マナとユリアがいる。ラナも身体は休みたいといっている。ラナはちょっと考えてから、隣の救護班の詰め所になっている天幕で休むことにした。
天幕の中は、汚れたシーツや服が積み重ねてあった。後で当番の者がまとめて洗うのだろう。
ラナは座って膝を抱えた。すると、どっと疲労感が襲ってきた。自分が思っている以上に疲弊しているようだった。セリス様は自分以上に大変なのだろうな、と思い、自分はセリスの役に立っているのか不安になった。ラナは、はぁっとためいきをついた。セリスに寄り添うユリアの姿を思い浮かべてしまったからだ。考えないようにしようと思っているのに。
やはり身体を動かしていないと、落ち着かない。ラナは天幕の中の布を抱えあげると、洗濯でもしようと、水場へ向かった。
ラナは前がよく見えず、ちょっと持ってきすぎたなと思いながらふらふらと歩いていた。しばらく歩いていると
「ラナ、大丈夫?」
そう声をかけられ、布の山が半分になる。布の山を崩してくれたのはラクチェだった。
「ありがとう、ラクチェ」
ラナは笑顔を浮かべてラクチェに礼を言った。
「まさか、ラナひとりでこれ洗うつもりだったの? 他にも救護班の人はいるでしょ、なんでラナだけでこんなことしなきゃいけないの!?」
ラクチェは興奮しているようだった。ラナを心配してくれているのだろう。それはありがたいが、これはラナがひとりで勝手にやっていることなので、救護班の者たちにラクチェが怒鳴りこまないよう、ラナは事情を説明した。
「違うのよ。私がもう魔力がなくて、杖が使えないから、勝手に洗濯でもしようと思っただけなの」
「それなら休んでなきゃダメじゃない」
神妙にラクチェが言う。
ラクチェに気を遣わせてしまって悪いなと思いつつラナは、
「なんだか、身体を動かしてないと、落ち着かないから」
そう言った。立ち止まってしまうと、もう考えたくないことを思い浮かべてしまう。だから何かしているほうがいいのだ。
「じゃあ、私も手伝う。それはいい?」
ラクチェが心配そうに言う。
「ごめんね。ありがとう」
ひとりで洗濯していたら、また忘れたいことを考えてしまうかもしれない。だからラクチェの申し出はありがたかった。
水場に向かう間、ラクチェがラナに何か言ってくるかと思ったが、終始無言だった。ラクチェの顔色を窺う。あまり元気とは言えそうにはなかった。何かあったのだろうか。声をかけようかとためらったが、ラクチェが纏う雰囲気がぴりぴりしていたので、下手に刺激しないほうがいいとラナは思考した。ラクチェのことだから、言いたいことがあれば、そのうち話してくれるだろうと思ったからだ。
水場に着いても、ラクチェは無言だった。ラナはラクチェが心配になってきていた。何かを深く考えるというのは、ラクチェは得意ではない。もしかしたらラナの言葉を待っているのではないのだろうか。洗濯を始めながらラナはそう思案した。声をかけようと、ラナが口を開いたところで、ラクチェが顔を上げた。そして
「ラナはユリアとセリス様のこと、どう思ってるの?」
まっすぐにラナを見つめてラクチェが訊いてきた。
「え……」
ラナは絶句してしまった。それは、もう考えたくない、そう思っていることだからだ。セリス様の心がユリアにある。それは誰が見てもあきらかだった。
ラナはセリスが好きだった。いや、今も好きだ。つまり失恋した、と。そういうことだ。
ラナが失恋したのは、ユリアのせいだとラクチェは言いたいのだろう。確かにユリアが現れなければ、ラナとセリスが結ばれていたという可能性は全くないとは言い切れない。だが、それはもしもの話であり、ユリアが現れなくても、ラナとセリスが結ばれないという可能性だってある。ラナがどんなにセリスが好きだとしても、セリスがその気持ちに応えてくれるかは、セリスにしかわからないことであり、ラナが失恋したのはユリアのせいだというのは、乱暴すぎる論だとラナは思っている。
昔、かなり幼かったころ戯れで結婚式ごっこをしたことがある。オイフェからグランベルの結婚式の話を教えてもらった時のことだ。セリスは、いや多分他の者も覚えていないだろう。だが、ラナにはセリスが「ラナをぼくのお嫁さんにする」と言ってくれたことが、本当に嬉しかった。てっきりラクチェのほうがいいと考えていると思っていたからだ。
イザークに隠れ住んでいたせいか、それともラクチェの器量がよかったためなのか、ラナよりラクチェのほうが、男の子に断然人気があった。憧れや恋心を抱くイザークの男は多かった。
シャナンなんかは、あからさまに贔屓していたように思う。いや、本人は一応、贔屓しているそぶりは見せてはいなかった。巧妙に隠していたつもりか、それとも無意識によるものなのか、だが、ラナにはわかってしまっていた。スカサハもそれを感じていたようで、シャナンにも向けられていたスカサハの瞳は、セリスだけを見つめるようになっていった。まあ、そんなことに関係なく、スカサハは単純にセリスを選んだだけなのかもしれないが、ラナにはシャナンにも一因があると思っていた。
オイフェもラクチェが勉学の時間をすっぽかすのも、黙認していた。今思えば、ラクチェが勉学の時間にいると、皆の邪魔をしていたような気がするので、それならばとオイフェは諦めていたのだろう。だが子どもからみると、それは贔屓だった。
それだけでなく、ラクチェは剣の腕が天才的だった。大きくなるにつれ、男の子には敵わないようになっていっていたが、それでも普通の人とは段違いに強くて、皆に一目置かれていた。
そんなわけで、ラクチェはまわりから贔屓され一目置かれている、特別な女の子だった。ラナはそれが羨ましくてしょうがなかった。だから、セリスがラナをお嫁さんにすると言った時は、そのラクチェへのわだかまりが解けていく気がした。自分を特別だと言ってくれる。そういう人が居てくれるというのは、なんと心強いことだろうと思った。そのことがきっかけだったのか、もともとそういう想いがあったのかは判らないが、ラナはセリスを好きになっていた。
そしてセリスにふさわしい女性になろうと努力をしてきた。結果、ずいぶん自分は強くなったと思っている。それにそうやって努力できる自分を好きになれた。今の自分があるのは、セリスのおかげなのだ。セリスからラナは充分、色んなものを貰ったのだ。
だから、ラナはセリスが自分を選んでくれなくてもかまわないと思っている。確かに失恋はつらいし、まだセリスのことを諦めずに、好きでいる自分がいる。だがセリスが誰を選ぶかは、セリスが決めることであって、ラナがどうにかできるものではないのだ。ラナがどう努力したところで、ユリアになれるわけではないし、また、なりたいとも思っていなかった。確かに最初ユリアが現れたときは、衝撃を受けたが、イザークの解放戦争で忙しくなってしまい、悩んでいる暇など無かった。いや、悩まないよう忙しくしていたのだ。そのせいもあって、自分でもずいぶん落ち着いてきた。だから、ユリアに敵対心をむけたりしないで、仲良くしたいと思っている。
つまり、ラナは自分の中でセリスとユリアへの考えが決着しているので、もうそのことは、あまり考えたくないのだ。失恋の思い出なんて辛すぎるから。
ラクチェはそれを無神経に抉ってくる。何事も曲がったことが嫌いなラクチェらしいといえばそうなのだが、ラナは疲れのせいもあって、ラクチェの無神経さが少し腹立たしかった。
「私は平気よ」
少しぶっきらぼうに答えてしまった。言ってからラナは反省した。ラクチェは自分を心配してくれているのに、こんな言い方はなかったかもしれない。
「嘘、無理してる」
ラクチェは悲しそうな声でそう言った。
「無理なんかしてないわ」
それは嘘だった。無理しなければ忘れられないのだ。だからこれ以上、穿り返して欲しくなかった。だから精一杯の笑顔を作った。
「だって、セリス様が盗られちゃうんだよ。それでいいのラナは?」
いいわけない。だが、それはセリスが決めることだ。ラナにはどうすることもできない。
「私はいやだ。ううん、私だったらそんな風に悠長に笑ってられない。ラナはおかしい」
ラクチェが子どものように頭を振る。
そんなことを言われても、ラナは困るだけだ。ラナだって自分にできることをしているだけだ。ラナから見れば、ラクチェがおかしい。どうして放っておいてくれないのか。
「ユリアにセリス様を盗られたくないし、パティなんかにシャナン様を盗られたくない! ラナはそう思わないの?」
ラクチェは泣き出してしまった。
そうか、ラクチェはユリアにパティをラナにラクチェをなぞらえているのか。だからと言って、ラナがラクチェの思い通りに動かねばならぬことにはない。
「私は、そうは思わないわ」
ラナはきっぱりと言った。
それは本心だった。ユリアが現れたからといって、自分の気持ちが変わるわけでもないし、幼い頃から培ったセリスと自分との絆が断ち切られるわけでもない。自信を持って断言できる。
だが、ラクチェの絶望に満ちた瞳を見たとき、自分が考えているほど、自分ができた人間ではないということを思いしらされた。ラクチェを傷つけてしまった。他にもっと言い方があったはずだと、ラナが後悔したときには、ラクチェはラナの前から走り去ってしまった。
「ラクチェ、待って!」
そう叫んだが、ラクチェは振り向きもせず行ってしまった。ラナは途中までラクチェを追いかけたが、疲れと足の遅さでラクチェを見失ってしまった。
私はなんてばかなんだろう。ラクチェは泣いていたのに。私を心配してくれていただけなのに。ラナは激しく後悔していた。
だが、後悔していてもラクチェが戻ってきてくれるわけではなさそうだったので、とりあえず洗濯物でもして、気を落ち着けようと思った。いくらラクチェでも陣から出て行ったりしないだろうから、洗濯物が終わってからラクチェを探そうと思った。
水場に戻ると、数人の救護兵が洗濯をしてくれていた。慌てて持ち場を離れてごめんなさいと謝ると、元々自分達の仕事だったのをラナが勝手に持っていってしまったので、謝るなら休んでいないことだと怒られてしまった。
ラナは怒られてしまったことだし、天幕に戻って休もうと思った。もしかしたらラクチェが居るかもしれないという淡い期待をもったが、ラクチェは天幕にはいなかった。どこにいるのだろうか。無性に心配になってしまったので、ちょっとだけ探そうと思った。自分の天幕を出たところでスカサハに出くわす。作戦会議は終わったようだった。
「スカサハ、ラクチェ見なかった?」
ラナはスカサハに訊ねたが、知っているとは思えなかった。二人は喧嘩中、というかラクチェが一方的に怒っている状態だったからだ。
「え? ラナの手伝いするって言ってたぞ、あいつ」
スカサハが怪訝な顔をする。
「あ、手伝ってくれている途中にいなくなっちゃったのよ」
ラナは慌ててそう付け加える。
「それなら俺は見てないな。見かけたらラナが探してたって言っとくよ」
「そう、ありがとう」
ラナはそういってスカサハと別れた。
スカサハは心配じゃないのだろうか。ふとそんなことを思う。まあ、何か仕事があるのかもしれないし、スカサハの優先度はセリスが常に一番だから仕方ないのかもしれない。
ラナは結局、イザークの陣営を一周してしまった。それでもラクチェは見つからなかった。もう一度、天幕も覗いてみる。いない。ラナはラクチェが心配だったが、そろそろ救護班の仕事をしなければならない時間になっていたので、後ろ髪引かれる思いで仕事に行った。