まだ辺りは暗く、太陽が昇るのに余裕がある頃、ラナは目が覚めた。昨日は疲れがたまっていたせいか、横になるなり眠ってしまった。そのおかげか、眠りはかなり深かったようで、もし敵の襲撃があったとしても、それに気付かず眠り続けていられたであろうほどだ。魔力もほとんど回復していた。
ラナはラクチェに早く会いに行きたかったが、この時間ではまだほとんどの者が眠っていると思われるので、簡単に身支度を整えると、水場から水を汲んできて、身体を拭いたり、髪を洗ったりした。砂漠に近いせいなのかは分からないが、髪はかなり早く乾いた。
やることがない。いや、そんなはずはない。いつもはもっと遅くまで寝ているから忙しくなるのだ。早起きしたからには何か用事を済ませたほうがいい。夜番の救護兵と交代する。それだと、ラクチェに会いに行く時間がなくなる。朝食の下ごしらえは、昨日のうちに終わっている。さて、どうしたものか。ラナが思案していると、天幕の外から控えめに声がかけられた。
「起きてるから、大丈夫ですよ」
ラナはそう返事して天幕の外に出た。天幕の前にはヨハンがいた。
「ごきげんよう、蒲公英の君。不肖ヨハン、愛しき女神のため、貴方の許にやってまいりました」
ヨハンは優雅にお辞儀をした。
「ラクチェは? どうしてるの?」
ラナは夢中でヨハンに問い詰めた。
「まだ夢の中です」
「眠っているのね。ヨハンさん、ラクチェに何もしてないわよね?」
ラナは笑顔をつくったつもりだったが、ヨハンが怯えているような態度だった。なので、ラナはヨハンがやましいことをしたのだと思い、
「なにしたの?」
今度はにらみつけた。
「い、いえ、同じ天幕で一夜を過ごしただけです。私は一睡も出来ませんでした」
ヨハンが両手をはげしく振りながら、あとずさる。
ラナはヨハンの言っている意味を理解し、顔を赤くした。
「ラクチェになんてことするの? エーディン母様に、嫁入り前にそんなことしちゃいけないって言われてたのに! 責任とってくださいね!」
ヨハンの身体をぽかぽかと殴りながら、ラナは半泣きになった。そうか、ラクチェは少女から女になってしまったのか。ラナはラクチェが遠くに行ってしまった様に感じられた。
「いえ、蒲公英の君、誤解しています。私は女神には、指一本もふれていません。女神はただ眠っただけです。神に誓えます」
ヨハンは早口で訴えた。ラナはヨハンへの攻撃をやめ、変な勘違いをしたことを恥じた。
「蒲公英の君、お願いしたいことがあります。よろしいでしょうか?」
襟首まできっちりとたてなおして、ヨハンが言った。
「なんですか?」
ラナも姿勢を正した。
「我が女神に、会っていただけないだろうか?」
ヨハンの瞳はとても強い力を湛えていた。ラクチェのことを、本当に心配してくれているのだろう。少なくともラナにはそう感じられた。ラナもラクチェに会いたいから、ヨハンの申し出は受けるつもりだが、ラナは不安に思っていることを口にした。
「ラクチェ、私に会いたいって言ってくれているの?」
「貴方に嫌われてしまったと、泣いておりました」
それを聞いて、ラナは胸がぐっと痛くなった。やはり自分の態度はラクチェを傷つけるようなものだったのかと。
「ですが、貴方に会って、ブラギ神の神託を受けました。蒲公英の君は我が女神を嫌ってなどいない。心の海の深層から女神のことを大切に想っていると」
ヨハンはうんうん頷きながら、話し続ける。
「ですから、我が女神に、貴方の愛をそっと伝えてあげてほしいのです」
最後ににっこりとヨハンが笑う。
ラナもつられて笑顔を浮かべた。
「ええ。もちろんです。ヨハンさんに言われなくても、謝りに行こうって思ってましたもの」
「やはり、貴方は慈悲深き聖母のような女性ですね」
胸に手を当て、ヨハンが言った。
「そうなれたらいいんですけどね。でも私はそんなに強くないです」
ラナは苦笑した。ヨハンはラナを買い被りすぎだ。まあ、ヨハンだから大げさに言っているだけなのかもしれないが。
「では、私の天幕まで行きましょうか。女神の夢もそろそろ終幕を迎える頃でしょう」
そう言って、ヨハンは歩き出した。ラナも頷いてヨハンの横を歩き始める。すると、ヨハンがラナの歩く速度にあわせてくれた。ラナはそれに感心すると同時に、ラクチェ以外の女性にそんなことをしていると、ラクチェがやきもちを焼くのではないかと心配になった。が、多分ラクチェは気付かないだろうから自分の杞憂だろうなと思い、おせっかいはやめた。二人が恋人同士ならいざ知らず、いや、恋人同士になるのなら二人の問題だからラナが口を出すのは、ラクチェに求められた時だけだ。そう思考し、ラナは黙って歩いた。
しかし、ヨハンは何かと他愛ない話題を振ってくる。夜明け前の空の色はラクチェの瞳に似て美しいとか、ラナの作るラズベリーパイは絶品だとスカサハから聞いたから、いつかご相伴にあずかりたいとか、ラナがわからない話をすることはなかった。その態度は、無意識なのか、気をつかっているのかラナには判別がつかなかったが、男のくせにほんとうにぺらぺら喋るなあと思った。ラクチェがあの男は口から先に生まれたと、ぼやいていたのを思い出し、同意だわと言いたくなった。
ヨハンの話に適当に相槌を打っているうちに、ドズルの陣内に入っていた。ラナはラクチェに早く会いたいという気持ちと、ラクチェに拒まれたらどうしようという考えがわきあがり、緊張してきた。
やがて、ヨハンのものと思われる、一番大きな天幕の前まで着いた。入り口の横にヨハンの部隊の者が立っている。ヨハンはその者と何か会話をしてから、ラナのほうをむいた。
「蒲公英の君、中までお供させてもらってもよろしいですか?」
ラナは特に断わる理由が思いつかなかったので、承諾した。それに、ひとりでラクチェに会うのはちょっとためらいがあったので、少し安心した。
では、と一言ラナに断わってから、ヨハンが天幕の中に声をかける。
「ええ、もう起きてるわよ」
ラクチェの声だ。いつもの元気な声にラナは安堵した。
ヨハンが天幕の中に入るので、ラナもお邪魔しますと声をかけてヨハンのあとに続いた。
ラナの姿を見たラクチェが、目を見開き、身体をこわばらせ、黙り込む。今にも出て行ってと、言われるのではないかと思ったラナは、ヨハンより前に進み出ると
「ごめんね」
そう頭を下げた。そして言葉が出てくるままに、もう一度謝った。ラナはラクチェの顔を見るのが怖くて、頭を上げられないでいた。ラナは自分が謝罪してそれですっきりしようと思って、謝ったわけではない。ラクチェと元の関係にもどりたくて謝ったのだ。都合がよすぎるかもしれないが、許してほしかったのだ。
ラナは自分が泣き出してしまわないように、ぎゅっと目を瞑った。
「謝らなきゃいけないのは、私のほうよ。ごめんね、ラナ」
ラクチェが涙声でそう言った。
ラナはすぐに顔を上げる。ラクチェが謝ってきた。自分を許してくれたんだ。ラナはほっとした。そしたら涙が出てきた。
ラクチェがラナに抱きついてきた。ラナもラクチェを抱き返す。
「ごめんね」
「私のほうこそ」
「ううん、私が悪かったのよ」
ラナとラクチェは、何度も泣きながら謝り合った。
ラナはラクチェがこんな風に謝ってくるとは思っていなかったので、内心驚いていた。昨日、ヨハンに何か言われたのだろうか。それがちょっと気になった。
ひとしきり泣いて、ラナの気分がすっきりしたころ、ラクチェが口を開いた。
「ラナ、私ね」
「うん?」
ラナは優しく首をかしげた。
「シャナン様がパティに盗られちゃうのがイヤなの」
ラクチェがまた泣きそうな顔をする。なので、ラナは安心させるように、微笑んで、力強く相槌を打った。
「だからきっとラナもセリス様が盗られちゃったらイヤなんじゃないかと思って」
やっぱりラクチェは自分とラナをダブらせていたのかと、ラナが思っていると
「だからラナがセリス様とユリアのことで悩んでいるなら、相談して欲しかったの」
ラナはそのラクチェの言葉に、胸を打たれた。そうか、ラクチェはラナが何も相談してくれないことに、歯がゆい思いをしていたのか。ラナはラクチェに心配をかけまいと、気丈に振舞っていたが、それがいけなかったのか。たしかに自分も、ラクチェが悩んでいるのに、何も出来ないでいたら焦れったい思いになるだろう。ラクチェがセリスとのことを詮索してきたのはそういう思いからだったのか。ラナはラクチェに申し訳ないことをしたなと思った。
「でもラナは平気だって言ったから。どうして平気なの?」
ラクチェが窺うようにラナを見る。
「それはね、セリス様が私を選んでくれなくても、私はセリス様が好きだからよ」
ラナはラクチェを安心させてやらねばと思い、とびきり明るい声を出した。自分でも、それは心から思っていることだから笑顔で言えた。たとえこの想いが報われなくても、セリスを好きになれたことは、ラナにとって喜びなのだ。
「私が男だったら、ラナのこと恋人にして、大事にするのに」
ラクチェが口をとがらせて言った。
「ふふ。ラクチェや皆がいてくれたから、立ち直れたのよ。ありがとう。でもね……」
ラナは笑顔を崩さないように努めた。
「セリス様とユリアの、その……二人の話をするのは、まだ辛いの。自分でも情けないなって思うんだけどね」
「ごめんね、ラナ。ラナの気も知らないで」
ラナの言葉にラクチェが深刻そうな顔をして謝る。ラナとしては笑顔を保ったつもりだが、ラクチェは何か感じることがあったのかもしれない。
「いいのよ。そのかわりお願いがあるの」
ラナはラクチェが神妙にしているので、前々から考えていたことを話すことにした。
ラクチェはちょっと身構えたようだった。
「ユリアと仲良くしてちょうだい」
ラナは祈るように言った。嫌な顔をされると思って、ラクチェをみつめていると、
「なんだ。そんなことでいいの?」
ラクチェはそう言って、胸をなでおろした。
「えっ、本当? ラクチェ」
ラナは驚いて、ラクチェに確認をとった。
「うん。ヨハンに言われたの。ちゃんと話し合ってみなければ分からないって。だから、ユリアを避けるのやめようと思ってたから、ちょうどよかった」
にこにこしながらラクチェが言った。絶対、今はいやだ、とか言うと思っていたので、ラクチェの心境がかなり変わっているのにラナは驚いた。しかも原因はヨハン。
「ふーん。ヨハンさんがねえ」
ラナはラクチェの腹をさぐるように、わざとらしく言った。
「あ、べ、別にヨハンのこと好きになったとかじゃないからね。私が好きなのはシャナン様なんだから」
ラクチェは強く言い張ったが、ラナには照れ隠しにしか思えなかった。昨日、ラクチェとヨハンの間で何があったのだろうか。ラナは気になってしかたないが、時が来れば、ラクチェから話してくれるだろうと、自分の野次馬根性を封印した。
「そろそろ、戻らないと。ラクチェも朝食前の鍛錬があるでしょ?」
ラナは天幕から出ようと、ラクチェを促した。
「うん。でも、ヨハンに一言、挨拶しておきたい」
またしてもヨハンの名前が出てくる。ラナがふうんと頷くと、ラクチェは少し顔を赤らめた。そんなラクチェがかわいくて、ラナはラクチェとの関係を修復できたことが、嬉しいと思った。そして、自分たちのことを気にかけてくれる人たちがいることに感謝した。
天幕から出ると、ヨハンとその部下がいた。
ヨハンに笑いかけたラクチェの横顔をみながら、ラナはその顔が少し大人びてきたなと、ぼんやりと思った。朝日をうけて笑うラクチェはとてもきれいだった。
了