ガネーシャから、ティルナノグの隠れ里に集結する解放軍への、討伐隊が出たという知らせが届き、セリスはすぐさま、それを迎え撃つと決断した。
ついに帝国を倒す機会がやってきた。
ラクチェの気分はどうしようもなく、昂っていた。
帝国は、ラクチェにとって許すことのできない敵である。ラクチェは帝国によるイザークの民への蹂躙を目の前で見た。そして、その時はラクチェだけが生き残った。あの時のイザークの民の無念、一瞬たりとて忘れたことはない。その無念をはらすために強くなろうと努力してきたのだ。そして今、その無念をはらす時がきたのだ。気分が昂揚してもしかたないだろう。
武者震いによるものなのか、緊張によるものなのかは分からないが、ラクチェは先ほどから手が震えて、剣の下げ緒が上手く結べなかった。
「ラクチェ様、私がやりましょうか」
それを見兼ねてか、ロドルバンが声をかけてきた。
ロドルバンはラクチェよりもずっと年上で、シャナンと共に幾度か帝国兵と戦ったこともある熟練の剣士だ。特筆するほどの剣の腕前はないが、今回が初陣となるラクチェたちにとっては、頼りになる存在だった。イザーク人であるためシャナンやラクチェ、スカサハを特に大切に扱う傾向がある。彼の妹のラドネイもそうだ。二人とも、帝国兵からシャナンに助けられたことがきっかけで、解放軍に加わった。帝国を憎む気持ちは強く、ラクチェが信頼している相手だ。
「大丈夫。自分でやれる」
ラクチェはロドルバンの申し出を断わった。
戦場に立ったらひとりなのだ。誰も助けてはくれない。ましてや自分はセリスを守る立場なのだから、これくらい自分ひとりでできなければならない。誰かの手を煩わせるようでは、子ども扱いされて戦場に出してもらえなくて当然だ。
ラクチェは震える手をぎゅっと握り締め、目を閉じた。脳裏にあの時のことがよみがえる。何のために帝国を倒すと誓ったのかを思い出す。
目を開けたとき、震えは止まっていた。
ラクチェはすばやく剣の下げ緒を結んだ。
剣の重みが左足に掛かる。ラクチェが差している剣は、ラクチェの母アイラが愛用していた勇者の剣だ。父が母に贈ったものだそうで、ラクチェはこの剣を持っているときは、不思議な安心感に包まれる気がした。剣の重みを心地よく感じながら、ラクチェは歩き出した。
集合場に行くと、スカサハが皆の真ん中にいた。イザーク人の兵士に色々話しかけられているようで、それに律儀に答えているようだった。
ラクチェは人々をかき分け、スカサハのもとまで行った。
「スカサハ、セリス様は?」
集合場には、セリスの姿がない。この軍の旗印となるべき人がいないのは、おかしいことだった。
ラクチェの当然の問いかけに、スカサハが大きくため息をついた。
「なによ」
大げさに呆れかえっているスカサハに、むっとしてラクチェは言った。
「どうりで全然しゃべらなかったわけだ」
「なによ、それ」
意味が分からない。ラクチェは苛々した。
「お前、作戦きいてなかっただろ」
「きいてたわよ」
それは嘘だった。ラクチェはセリスが説明する作戦が、頭に全く入ってこなかった。帝国兵を倒すということで頭がいっぱいで、セリスの作戦を理解できなかったのだ。とりあえず、自分は帝国と戦えれば問題ないと思っていたので、集合場所だけ覚えておけばいいと考えた。だからセリスの姿が見えないことを、不思議に思ったのだ。
「本当か?」
スカサハが厳しい目つきで言う。
その眼がいつになく鋭いので、ラクチェは何も言えなくなる。
ラクチェが押し黙ってしまったので、スカサハはため息をついてから
「とりあえず、お前は俺の隊だから、俺の言うこときけよ」
不機嫌そうな声でそう言った。
スカサハの態度には不満があるが、自分が悪い部分もあるなと思ったので、ラクチェはスカサハの言葉に頷いた。
そんなやり取りをしていると
「スカサハ様、そろいました」
ロドルバンがやってきて、そう告げた。
スカサハはそれに分かったと頷くと、集まっている兵に向かって声をはり上げた。
「よし、じゃあ作戦を説明する」
兵たちがスカサハに注目する。そのほとんどは、黒い髪に黒い目のイザーク人だった。シャナンの呼びかけによって、集まってきた者がほとんどだろう。ラクチェはオイフェが集めたバーハラの戦いで落ち延びてきたシアルフィの騎士達が、いないことに気がついた。スカサハが俺の隊と言っていたのと、セリスの姿が見えないことから考えて、セリスは他に隊を率いているのかもしれない。そう考えている間にも、スカサハの説明は続いている。ラクチェには、細かいことはよく分からなかったが、とりあえずティルナノグの東南東の森で敵を待ち伏せするということは、理解できた。あとはスカサハの指示通りにすればいいだろう。ラクチェの頭は、帝国兵への一太刀目のことでいっぱいだった。
スカサハが出発の合図をする。
それを聞いた解放軍の兵たちは、スカサハを先頭に歩き出した。
「ラクチェ、こっちだ」
スカサハに呼ばれ、隣を歩かされる。本当はスカサハの隣なんて、歩きたくなかったので、スカサハより少し前を歩くことにした。
「ラクチェ、勝手に飛び出すなよ」
スカサハが声をひそめて言った。
「わかってる」
ラクチェはスカサハを睨みつけた。今はスカサハの小言など、聞いている余裕はない。ラクチェはいつガネーシャの討伐隊とぶつかるか、そのことを気にしていた。自分が真っ先に斬り込んで、必ず倒してやる。そんなことばかり考えていた。
そして、ティルナノグ東南東の森に着いた。スカサハの指示で皆が森に身を潜める。ここで敵を迎え撃つというのだろうか。スカサハのほうを見ると、合図があるまでおとなしくしてろと、言われてしまった。こんなことなら、作戦をちゃんと聞いておけばよかったと、少し後悔した。だから戦場では後悔しないように、ラクチェは敵が来るのを集中して待った。
遠目に帝国兵らしき一団が、東から歩いてきた。ラクチェが剣を抜こうとすると、すぐそばにいたロドルバンに止められる。
「セリス様の合図を待ってください」
ロドルバンは、ラクチェにだけ聞こえる声でそう言って、西の空を見た。ラクチェも、つられて西の空を見る。空は青く晴れわたっていて、どこまでも見通せそうだった。
ラクチェが空を見るのにうんざりしてきたころ、帝国兵らしき一団は、ガネーシャの討伐隊であることが分かるほど、近くまで迫っていた。ラクチェはセリスからの合図とやらがこないことに、じりじりしていた。
ラクチェの目と鼻の先を、ガネーシャの討伐隊がティルナノグ目指し、行軍する。その数は、ラクチェたちの倍以上あるのではないだろうか。ラクチェが敵の数を数えるのに飽きても、合図はなく、他の兵たちも息を潜めていた。
このままでは、敵がティルナノグに到達してしまうのではないかと、不安になってきた。そう思ったとき、高い破裂音が響く。ラクチェは音のした西の空を見た。細く灰色の煙が上がっている。それと同時に、スカサハが
「いくぞ!」
と叫んだ。
その声を聞いた解放軍の兵たちは、次々と森から出て、帝国兵に攻撃を始めた。帝国兵は突然の攻撃に対応できないで、何が起こったのか判らないようだった。
ラクチェはその様子を、呆然と眺めていた。胸の音がやけに大きく響いて、それしか聞こえない。口の中がカラカラに乾いてくる。どうしたというのだ。想像の中では、幾度となく帝国兵を斬り殺してきたというのに、足が地面に貼りついて動かない。
解放軍の戦士が、帝国兵を斬りつける。倒れる帝国兵。
戦士が、逃げ出そうとする兵士を後ろから斬り込む。そのまま前のめりに転ぶ兵士。
また別の戦士が、兵士の攻撃をかわし、斬り返す。血を噴出し絶命する兵士。
何度も何度もラクチェが、想像してきた光景だ。だが、想像とは違う。本当に帝国兵が死んでいくのだ。ラクチェは急に心細くなり、兄の姿を探した。けれど、スカサハはどこにもいなかった。スカサハは平気なのだろうか。そう考え、何が平気なのか、わからなくなっていることに気がついた。
もう一度、スカサハの姿を探す。すると、帝国兵が解放軍の戦士に斧を叩きつける姿が、目に入った。崩れ落ちる解放軍の戦士。その解放軍の戦士と目が合う。ラクチェの脳裏にあの時のことが呼び起こされる。
「はああああああっ」
ラクチェは雄叫びを上げると、勇者の剣を抜いて、先ほどの帝国兵に向かって走り出した。帝国兵が近くなるにつれ、頭が冴えていくのを感じた。左上から斬ればいい。そう思い浮かぶ。身体は自然と動いた。手に嫌な感触がはしる。だがラクチェの動きは止まらない。今度は右下から斬り上げた。帝国兵が後ろに倒れこむ。だが、まだ絶命はしていないようだったので、ラクチェは剣を振りかざし、帝国兵の胸に突き刺した。帝国兵は血を吐いて、動きを止めた。それを確認すると、ラクチェは帝国兵の身体を足で押さえつけ、剣を引き抜いた。
剣についた血をはらい、構え直した。帝国兵の姿を探す。
勇敢に戦う解放軍とは違い、帝国兵は逃げ出す者、戦うもの、と動きはバラバラだった。
右から気配を感じて、咄嗟に左に跳躍する。斧が空を斬る音がした。ラクチェは体勢を立て直すと、右を見た。そこには、息を乱した帝国兵が、じろりとラクチェを見ていた。ラクチェはその目に怯んだ。その隙を逃さず、帝国兵が攻撃を繰り出す。それをかろうじてラクチェは避ける。大振りの攻撃を繰り出した帝国兵は、前のめりに体勢を崩す。ラクチェは帝国兵の首を、すばやく斬りつけた。帝国兵はそのまま前に倒れると、しばらくして動かなくなった。
次の敵を探して辺りを見回していると、角笛の音が鳴り響いた。ラクチェの近くには、帝国兵の姿がなくなっていた。それでもラクチェは剣をかまえ続けていた。
「ラクチェ様、ご無事ですか」
いつの間にかロドルバンがやってきて、声をかけてきた。
「ロドルバン」
ラクチェは、ロドルバンを見上げた。
「大丈夫ですか」
心配そうな顔をしてロドルバンが、ラクチェを窺う。
「大丈夫よ、ロドルバン」
ラクチェは、ロドルバンを安心させようと、笑顔をつくった。だが警戒は怠らない。
「我々の勝利ですよ。戦いは終わりました」
ロドルバンが大きな声で言う。
「本当に?」
ラクチェは首をかしげて、周囲を見まわした。すると、武器を解放軍の戦士に取り上げられている帝国兵の姿が目に入った。
「まだいるじゃない」
そうつぶやいて、ラクチェは剣を握りなおすと、その帝国兵に斬りかかった。帝国兵は肩から血を流し、地面を這いつくばる。
「た、た、助けてくれ。死にたくない……」
ガチガチと奥歯を鳴らしながら、帝国兵はラクチェに命乞いをした。
またラクチェの心に、あの時のことが思い浮かぶ。
焼ける匂い。
血の匂い。
男の怒号。
泣き叫ぶ女の声。
「あの子もそう言ったけど、お前達は……おまえたちはっ!」
どうしようもない憎しみが、ラクチェの心に湧きあがってくる。許さない。決して。そう誓ったのだから。
ラクチェが剣を振り上げようとした瞬間、
「バカ! ラクチェ、やめろ」
スカサハの声が響く。それと同時にラクチェの身体に衝撃が走る。
ラクチェは気がつくと、横に倒れていた。なぜ自分が倒れているか、理解できなかったが、今はそんなことより、帝国兵を倒すことが先だ。剣はしっかり握っていたから、なくしていなかった。起き上がろうとしたところで、誰かが覆いかぶさっているのに気付く。
「ラクチェ、落ち着け」
スカサハだ。スカサハが邪魔をしている。スカサハの声がうるさい。早く帝国兵を倒さないといけないのに。
「どいて」
ラクチェはスカサハをどけようと、上になっている手で押したが、スカサハはびくともしない。
「もう戦いは終わったんだ! 俺たちが勝ったんだよ!」
スカサハが怒鳴る。
何を言っているのだ。戦いが終わって自分達が勝ったのに、なぜ帝国兵がいるのだ。スカサハの言っていることは、おかしい。ラクチェはそう思った。
「勝ったのに、帝国兵が生きているなんて、おかしい!」
ラクチェはスカサハに大声で、食って掛かった。
「あれはもう戦う意思のない、捕虜だ。殺す必要はない」
言い聞かせるような口調で、スカサハが言う。
「殺さなくていい帝国兵なんていない!」
「バカなこと言うな!」
スカサハがまた怒鳴る。ラクチェは言い返そうと、口を開いたが、
「頼むから、そんなこと二度と言うな」
泣きそうな声をスカサハがあげたので、ラクチェはびっくりして、言葉を飲み込んだ。
「もう、戦わなくていいんだ」
戦わなくていい、それはどういう意味なのだろう。もう剣を振るわなくて、いいということなのだろうか。そんなことはない、まだ帝国の奴らを皆殺しにしていない。でも、スカサハは戦わなくていいと言う。ラクチェは混乱していた。
「俺たちが勝ったんだから、安心しろ」
優しくスカサハが言う。
「帝国に勝ったの?」
「ああ、そうだ。だから、もう戦わなくていいんだ」
力強くスカサハが頷く。
そうか、戦いに勝ったのか。それならもう、大丈夫だろう。そう思った後、ラクチェは意識を失った。