ラクチェの意識が、名前を呼ばれて戻ってくる。ここは、帝国に襲われたあの集落ではなく、メルゲン城の回廊だった。ラクチェの名前を呼んでいてくれたのは、ヨハンだった。
顔を上げると、ヨハンの気遣うような視線とぶつかる。
「ヨハン……わ……たし……」
ラクチェの心は、めちゃめちゃだった。自分を恨んで死んでしまったあの子。あの時の目が、今もラクチェを責めているように感じられた。
ラクチェは足が震えて、立っているのがやっとだった。自分はどうすればあの子に許してもらえるのだろうか。そのことで頭がいっぱいになった。
「ラクチェ、歩けますか?」
ヨハンが優しく声をかけてくる。回廊の向こう側からは、ラドネイの声が聞こえてくる。場所を変えようと、ヨハンが案じてくれているのだろう。
ラクチェはそれに、かろうじて頷く。ヨハンに寄りかかるようにして、城の中を歩いた。
どこをどう歩いたのかはわからなかったが、気付くとヨハンの部屋に着いていた。ヨハンはラクチェを椅子に座らせると、自身はそのかたわらに跪いた。前もこんなことがあったな、とラクチェは思い、少し心が軽くなった。
「ラクチェ、貴方の心に暗い影を落とす何かを、私に話してくださいませんか? 私は、貴方の太陽のような笑顔を見たいのです」
ヨハンの相変わらずの口上がおかしかった。また少しラクチェの心は軽くなる。ヨハンと居ると、ラクチェは心が楽になっていく。辛いこともヨハンがそばにいてくれれば、乗り切れるかもしれないと思った。そして、重い口を開いた。
「私、見殺しにした子がいたの」
ラクチェの言葉に、ヨハンが驚いたように目を見開く。
「帝国に、襲われたときに、助けてあげられなかった。ううん。怖くて何もできなかった……」
また、あの子の目がラクチェを責める。ラクチェは泣きたくなったが、泣いてしまったら、何も話せなくなってしまいそうなので、我慢した。その代わり、椅子からおりて、ヨハンにすがりついた。ヨハンは何も言わず、ラクチェを抱きしめてくれた。ヨハンの身体はとても温かくて、ラクチェの心を優しく包み込んでくれた。
「あの子は、私を恨んで死んでいった」
ラクチェはヨハンの服をぎゅっと握った。そして
「だから、あの子に許してほしくて、私は帝国を憎むことにしたの」
搾り出すようにそう言った。
悪いのは帝国だ。そうしてしまえば、自分の罪はなくなると思った。実際、ラクチェは忘れることができた。しかし、脆い壁で覆ったそれは、簡単に崩れ落ち、今ラクチェを苦しめている。
だが、言葉にして言ってみると、ずいぶんと気持ちが楽になった。きっとヨハンが抱きしめてくれているからだろう。人の体温というのは、こんなにも安心するものなのだろうか。ラクチェは不思議な気分になった。そしてするりと言葉が出てきた。
「私、どうすればいいの? このまま、帝国を憎んで戦い続ければ、いつかあの子に許してもらえるの?」
許してほしい。それはラクチェがずっと、心の奥底で思っていたことだ。そのためにラクチェは戦っていたのだから。信念という尊い響きからは、あまりにもかけ離れている理由に思えた。だからラクチェは自分が迷っていることをヨハンに伝えた。
「ラクチェが生きたいとおりに、生きればいいのだ」
ヨハンがラクチェの短い髪を梳きながら答えた。
「生きたいとおりに? それがわからないのよ」
ラクチェはヨハンの胸を叩いた。自分の罪をごまかすために、帝国を憎み戦ってきた。それではいけないとラクチェは思い始めている。でも、何から自分を変えていけばいいのか、判断できないでいた。
「無理に変わろうとしなくてもいいのだよ。わからないなら、わからないままでもいいのだ」
ヨハンの言葉にラクチェは顔を上げる。するとヨハンの思い遣り深い眼差しと出会う。ヨハンは微笑んで言葉を続ける。
「私はラクチェがどんな道を歩もうとも、ずっと見守り続けるつもりなのだから」
だから安心していい。ラクチェにはヨハンがそう言ってくれているように感じられた。たしかに、ヨハンはどんなに酷いことを言っても、変わらずラクチェを想い続けてくれた。それはなぜなのだろうか。
「どうして、私にそこまでしてくれるの?」
ラクチェは首を傾げる。
「それが、私の愛だからだ。ああ、ラクチェ、私の永遠の女神よ」
そう言ってヨハンは、ラクチェの前髪をかきあげ、ラクチェの額に口付けした。ラクチェはびっくりして、ヨハンの顔を手で押しのける。
「調子に乗りすぎよ!」
ヨハンの行動が、ラクチェは恥ずかしくて、そう怒鳴った。ヨハンは嬉しそうに笑っている。だが、ラクチェはヨハンに口付けされても嫌ではない、どちらかというと自分が喜んでいるということに気付いてしまった。ヨハンはこんな自分に辛抱強く付き合ってくれて、好意までよせてくれている。ヨハンが傍に居てくれれば、わからないままでも、生きていける。そう思えた。
「あのね、ヨハン」
「なんでしょう?」
ラクチェが改まって言うと、ヨハンも背筋をのばして、ラクチェを見つめてきた。
「私は、イザークの皆の気持ちを無視することは出来ないし、まだまだ死んだあの子のことを忘れることはできない。それでも、私が皆に許してもらえると思えるまで、そばにいてくれる?」
言ってしまってから、なんだか愛の告白みたいだとラクチェは思った。でも、今のラクチェの素直な気持ちをヨハンに伝えたかったので、少し恥ずかしくなったが構わないと思えた。ヨハンのように自分を包み込んでくれる人が、ラクチェには必要なのだ。
「ああ、もちろんですとも。私のラクチェ」
ラクチェの手を握って、ヨハンが言った。ラクチェもその手を握り返す。繋いだ手はとても温かかった。ヨハンの包み込んでくれるような優しさがあれば、ラクチェはなんだって乗り越えられる気がした。いつか、自分の納得がいく答えを出すことが出来るかもしれない。そう思えた。
ふと、ラクチェの眼に強い光が感じられた。顔を上げると、いつの間にか雨はやみ、窓からは明るい光が射していた。
いつかこの光がラクチェの進む道を照らしてくれる。そう思えるのは、ヨハンが傍にいてくれるからだろう。
だからラクチェはヨハンがみたいと言った太陽のような笑顔を浮かべた。
了