ぽつりぽつりと雨が降り始め、衛生兵が慌てて洗濯物を取り込んでいるのが、窓からちらちらと見えた。
ラクチェはヨハンと話そうと思い、メルゲン城内でヨハンを探して走り回っていた。
あの男は用もないときは、いつも自分につきまとっているのに、こういう大事な話しをしようとすると、なかなか見つからない。面倒な男だな、とラクチェは思った。会う人、会う人にヨハンの居所を聞いたが、誰も知らないと言っていた。本当にどこにいるのだろうか。
もしかして、スカサハのところに居るのではないのだろうか。ふいにそう思いつく。ヨハンはスカサハを義兄上と呼んで、慕っているらしい。その上、今スカサハは怪我を負って床に付している。ヨハンが見舞いに行っていてもおかしいことはない。ラクチェはスカサハの部屋の前まで戻ることにした。
ラクチェがスカサハの部屋の前にたどり着いたと同時に、ヨハンがスカサハの部屋から出てきた。
「ヨハン、もう、探したのよ! なんでこんなところに居るのよ」
ラクチェはヨハンの顔を見ると、開口一番、そう言った。
「おお、ラクチェ。我が永遠の女神よ。この不粋な私を探し彷徨っていたのですか。それは申し訳ないことをいたしました」
ヨハンはすぐにラクチェのそばに来ると、そう言ってラクチェの手をとった。
「訊きたいことがあるの」
ラクチェもヨハンの手を握り返した。
「なんなりと」
ヨハンは優雅な笑みを浮かべた。
しかしラクチェは、何をどう訊けばいいのか思いつかず、言葉がでてこなかった。それをみかねたのか、ヨハンは場所を変えましょうと、歩き出した。ラクチェも手を引かれ歩き出す。
歩いているうちに、ラクチェも考えがまとまってきたのか、ぽつりぽつりと、ヨハンに言葉を投げかけ始めた。
「ヨハン、あなたは信念をもって、戦っている?」
「ええ、もちろんです。貴方のお役に立つこと、それ以外にも大事な信念があります」
胸に手を当てて、誓いをたてるかのように、ヨハンが言う。
「そのためだったら、自分の父親も殺せるのね」
ラクチェの言葉に、ヨハンが一瞬、足を止める。が、すぐに動き出す。
「そうですね」
しばらく間があってからヨハンがそれだけ言った。
ヨハンの持つ信念は、実の親を殺めることができるほど、固いものなのだろう。では、ラクチェの信念は弱いものなのだろうか。いや、弱いのではなく、その信念が間違っている可能性があるのではないか。雨音が激しくなる。ラクチェはだんだん不安になってきた。
「私は、帝国が憎いから戦う。それが自分の信念だと思ってた。でも、それは、何か違う気がする」
ラクチェはぽつりとつぶやいた。
「なぜです?」
「なぜって……だって、そのためにスカサハやラナを殺したりなんてできないから」
ヨハンに問われて、ラクチェは答えた。ラクチェは自分の信念のために、親しい者たちに剣をむけたりはできない。そんなに弱いものが、信念と言えるのか。ラクチェにはそれが分からなかった。
「ラクチェは帝国が憎いから、帝国と戦う。憎い帝国の者ではないから、義兄上やラナ殿を殺せない。筋道は通っているのではないですか?」
「そうかもしれないけど」
歯切れ悪く、ラクチェは言った。
帝国の奴らを皆殺しにする。なぜ自分はこんなにも帝国を憎んでいるのだろうか。イザークを蹂躙していた帝国が憎いのは当然のことなのに、ラクチェの中でそれだけでは、帝国をここまで憎む理由として弱いものだと感じられた。
「どうして、帝国が憎いのかわからないの」
どうすればいいの? その言葉を発する前に、ラクチェは名前を呼ばれた気がして、立ち止まった。不思議そうにヨハンが声をかけてくる。
しばらく立ち止まっていたが何もないので、気のせいかと歩き出そうとすると、ラドネイの声が向こうのほうから聞こえた。なにやら興奮しているのか、声を荒げているようだった。ただならぬ雰囲気に、ラクチェとヨハンは立ち止まって、聞き耳を立ててしまった。
「シャナン様、イザークの民は、シャナン様とラクチェ様が一緒になってイザークの復興をしてくれるのを望んでいます!」
どうやらシャナンに文句を言っているようだった。先の戦いでも、シャナンを叱責していたので、そのことでもめているのかとラクチェは思った。
「ですが、ラクチェ様は我々の敵であるドズルの公子と親交を深めています」
ラクチェは自分とヨハンのことを、ラドネイがシャナンに意見をしているようなので、どきりとした。敵。たしかにヨハンはドズルの人間だが、今は解放軍の仲間なのではないのだろうか。そこまで考えて、自分がヨハンを排斥しようと息巻いていたのを思い出し、なんとも言えない複雑な気分にラクチェはなった。
「先ほども、ドズルの公子を探してまわっていました。イザークの者は居場所を教えなかったようですが……」
皆、知らないのではなくて、隠していたのか。そういわれてみれば、はぐらかすような返事が多かった気がする。ラクチェはそんなことをされているとは夢にも思わなかったので、ラドネイの言葉に愕然とした。
「そうか」
シャナンはあまり興味がないような返事をした。
「そうか、ではありません! イザークから来た者は、今のラクチェ様の態度に納得がいかない者が大勢居ます」
シャナンの曖昧な返事にラドネイが、激昂する。
ラクチェはそんなことになっているとは、知らなかった。誰もそんなことは教えてくれなかったからだ。いや、自分で気がつけなかった。周りが見えていない証拠だ。ラクチェは恥ずかしさと無念な気持ちで、力なく頭を垂れた。
ヨハンが気遣うように、ラクチェの名をそっと呼んだ。自分がヨハンを気遣ってやらねばならないのに、ヨハンに先に気をつかわせてしまった。ラクチェはそんな自分がさらにイヤになった。
ここから離れましょうと、ヨハンがラクチェの手を引いて歩き出す。
そして、その場から離れようとした時
「裏切り者のドズルの血を半分引いているからだと、陰口を叩く者までいて……」
ラドネイのごねる声が聞こえた。
裏切り者。
そう言って、死んでいった子がいた。
ラクチェは思い出してしまった。あの日、帝国に襲われた集落のことを。
「ラクチェ様はここに隠れてください」
そうあの子は言った。
「私も戦うわ。みんなを守る」
ラクチェは睨むように言い切った。
このとき、ラクチェはまだ真剣にさわらせてもらえることすらなく、帝国兵相手に戦える力もなかった。それでもラクチェは、皆を守りたかったし、帝国とはいつか戦う運命にあるとわかっていたので、そう言ったのだった。
「ダメです。私も安全なところに隠れますから」
強い口調で言われてしまい、ラクチェは結局、ベッドの下にむりやり押し込められてしまった。
ベッドの下はラクチェ一人が隠れる広さしかなかった。ラクチェはあの子がどこに隠れたのかはわからなかったが、同じ部屋のどこかに隠れているのだろうと思った。ラクチェはベッドの下で、もどかしい思いをしていた。自分にシャナンほどの力があれば、この集落を守ることができたのに。そう思うと、力の無いことが、くやしくて、くやしくて仕方なかった。
隠れてから、ひどく長い時間が経ったような気がした。
焼ける匂い。
血の匂い。
男の怒号。
泣き叫ぶ女の声。
それらがラクチェの意識に刻まれる。帝国の所業を、やっぱり許すわけにはいかない。
ラクチェがベッドの下から飛び出そうとすると、乱暴に部屋の扉が開かれた。慌ててベッドの下に潜りなおす。
部屋の中をゆっくりと歩く、帝国兵の足がちらちら見える。
今飛び出せば、自分がどういう目に合うのか、ラクチェは想像してしまった。そして思った。死にたくないと。
まだ死にたくない。
先ほどは、討ち死にしようとも構わないと思っていたのに、目の前に死というものを突きつけられて、ラクチェの心は大いに乱れた。
どうか見つかりませんように。早くシャナン様が、助けに来てくれますように。ラクチェは息を潜めて祈った。
やがて、帝国兵が足を止めたのがわかる。しばらくして、やめて、という悲鳴と共に、ものが割れる音がした。
あの子が見つかったんだ。
ラクチェは、助けなきゃと思いながらも、身体がどこも自由に動かせなくなっていた。そのくせ、手足はカタカタと小刻みに震え、歯がカチカチと鳴る。これでは、自分も帝国兵に見つかってしまうと、恐怖を覚える。必死で身体の震えが止まるようにと、強く手を握った。
「助けて」とか「いや、やめて」と泣き叫ぶ声が部屋に響く。それを喜ぶかのように帝国兵が卑しい笑い声を上げる。次は自分の番なのかもしれないと思うと、絶望という闇が心を支配した。
私まで見つかってしまうかもしれないと、思うと怖くてしかたなかった。
そんな思いが真っ先に浮かぶ。ラクチェはそんな自分に失望した。さっきまで戦う、皆を守ると、息巻いていたのに、いざとなったら自分が一番かわいいのか。
助けなきゃ。
震えながらラクチェは、ベッドの下から這い出そうとした。すると、ひときわ大きな悲鳴が上がった。ラクチェは身じろぎして、這い出すのをやめる。
怖い。死にたくない。
その二言が頭の中をぐるぐるまわる。あの子を助けに飛び出したら、自分が同じ目にあうかもしれないと思うと、ラクチェはどうしていいのか判らなくなってしまった。あの子の泣き声を聞きながら、ラクチェがとった行動は、目を閉じ、耳を塞いで、知らないふりをすることだった。
やがて、喧騒が聞こえなくなったかと思うと、どさり、と床に何かが落とされた。思わずそちらを見る。
目が合った。
あの子の死体だった。帝国兵に陵辱され、殺されてしまった。
私が助けなかったから?
ラクチェにはその目が裏切り者と、ラクチェを糾弾しているように感じられた。ラクチェの心には、自分が助けられなかったあの子は、ラクチェを恨んで死んでいったのだと刻まれた。