明日のソファラへの進軍の準備を、ラクチェがようやく終わらせたのは、太陽が少し沈んでからのことだった。この時間ならば、まだスカサハも寝ていないだろうと、ラクチェはスカサハの部屋に向かった。
「スカサハ、私だけど、入るわ」
ノックもそこそこに、ラクチェはスカサハの部屋に入った。
扉に背を向けるように座っていたスカサハは、頭だけ振り返り、ラクチェの姿を確認すると、ノックぐらいしろと、言った。そう言われ、ラクチェはごめんと頭をたれた。ラクチェの様子が普段と違っていることに気がついたのか、スカサハは優しく微笑むと
「オレも話があったから丁度よかった」
そう言って、剣の手入れ道具を片付け始めた。スカサハは何か集中してやりたいことがあると、その前に剣の手入れをするクセがあった。明日の戦いに備えて、今回も剣の手入れをしていたのだろう。道具を片付けたスカサハは、ラクチェに座るようにと椅子を譲り、自身はベッドに座った。ラクチェはふらふらと椅子に座った。
「どうしたんだ」
スカサハは心配そうに、覗き込んでくる。
ラクチェは何から言えばいいのか分からず、沈黙する。スカサハに訊きたいことはたくさんあったのに、なかなか言葉に出来ないでいた。何から訊けばいいのか、自分はどんな答えを求めているのか。それがわからない。ラクチェが黙り込んでいると、
「大丈夫だ」
スカサハはそう言って、ラクチェの肩に優しく手をおいた。スカサハのぬくもりが、じんわりと伝わってくる。それに安心したのか、ラクチェは一言するりと言葉が出てきた。
「スカサハは、怖くないの?」
視界がぼやけて、スカサハの顔がよく見えない。目に熱いものがたまって、頬を滑り落ちていく。上手く言葉に出来ないのが、もどかしい、苦しい。
「俺にはよくわからない」
スカサハのその言葉は、ひどく冷たく感じられた。だが、スカサハは、ラクチェが何を怖いと訊いたのか、わかっているようだった。ラクチェはスカサハの次の言葉を待つ。
「でも、ラクチェが戦うのが嫌なら、無理する必要はないと思う」
今度のスカサハの言葉は、優しく感じられた。そうか、自分は戦うのが怖くないのかをスカサハに訊いたのかと、思い至る。戦うのは、確かに怖い。だが、自分には戦う目的がちゃんとある。ラクチェの脳裏にあの時のことが思い起こされる。無残に帝国に殺されていった者たち。その者らの無念をはらすために、自分は強くなると誓ったのだ。あの者たちのためにも、ラクチェは戦わなくてはならないのだ。
「私は戦うのをやめるわけにはいかないわ」
はっきりとそう言い、ラクチェは視界を拭った。その瞬間、スカサハの心配そうな瞳が、目に入る。青い、父親譲りの瞳の色。それはラクチェも同じだったはずだ。
「ねえ、スカサハ。私はどうして、帝国の奴らと同じ血が流れているの?」
ラクチェの声は震えていた。それが怯えによるものなのか、怒りによるものなのか、ラクチェにも分からなかった。ただどうしようもなく暗く重いものが、心の中で渦巻いている。
「何を……」
スカサハは驚いたように、つぶやいた。後半は聞き取れなかった。
「だって私はイザーク人よ。帝国の奴らと同じなんかじゃないわ。それなのに帝国の奴らと同じ血が流れているなんて、おかしいわ」
ラクチェは憎憎しく、言葉を吐き出した。ラクチェの頭はだんだん混乱してきていた。自分が何を言っているのか、分からなくなってきていた。それでも、帝国が憎くて、憎くてたまらないという言葉だけは口から溢れてくる。
肩をつかまれ、スカサハに揺すられる。スカサハが何か言っているのがわかるが、内容までは判らない。心配して声をかけてくれているのだろうが、スカサハの青い瞳がラクチェは怖くて、怖くてしかたなかった。ラクチェはスカサハの腕を振りほどいて、部屋から逃げるように走り去った。
ヨハルヴァの言葉がラクチェの頭の中で、響き続ける。
違う。私は帝国と同じなんかじゃない。あんなことをする奴らと同じ人間じゃない。
ラクチェはヨハルヴァの言葉を、そう思って打ち消そうとするものの、自分にドズルの血が流れていることは事実であり、それからは逃れることができなかった。なので、何も考えずにひたすら走った。ひんやりとした夜の空気は、ラクチェの頭に上った血をだんだん下げてくれた。
城中を走り回って、何も考えられないほどに疲れて、ようやくラクチェは足を止めた。肩で息をしながら、回廊の柱に手をつく。苦しかった息が元に戻ってくると、忘れたはずの嫌なことも思い出してしまう。どうすればいいのだろう。もう一度走ろうかと考えていると
「誰!」
急に明かりを向け怒鳴られて、ラクチェは怯んだ。
「あ、ラクチェ様でしたか。申し訳ございません」
カンテラの明かりでラクチェを照らしたのは、ラドネイだった。不審者だと思ったものが、ラクチェだったので、ラドネイは慌てて膝をついたようだった。夜の見回りの当番なのだろう。
「ラドネイ……いいの。気にしないで」
ラクチェはラドネイに立つよう促す。
「どうなさったのですか。こんな時間に。眠れないのですか?」
眠れなくても、横になっているだけでもいいと、ラドネイは言った。明日の出陣を考えて、ラクチェを気遣ってくれているのだろう。ラドネイのまっすぐな黒い瞳が羨ましかった。
「ラドネイは、私がドズルの血を引いていること、知っているんだよね」
ラクチェはラドネイに聞こえないように、言葉にしたつもりだったが、ラドネイは何かあったのかと、すぐに訊いてきた。
しばらく考えを巡らす。ラドネイは生粋のイザーク人だ。剣聖オードが国を興したときから続く家柄で、イザーク王家に忠誠を誓っている。イザーク人と言っても様々で、ラドネイのように定住生活をする者もいれば、遊牧生活をする部族の者もいる。大きな部族の長はオードの血を引いていることもあるらしい。帝国を憎む気持ちが強く、セリスが立ち上がらなくても、どこかで反乱が起こるのは目に見えていた。
ラクチェはずっと自分はイザーク人だと思っていた。父親がドズル家の者であることは、知ってはいたがあまり考えないようにしていた。父はグランベルの人間だったが、帝国とは違うと思っていた。だが、帝国はそう思っていないことを、ヨハルヴァの言葉で気付かされてしまった。ラドネイはどう思っているのだろうか。訊いてみるか。
「ねえ、ラドネイは私を帝国の人間だと思う?」
「まさか。なぜそう思うのですか?」
ラドネイは目を丸くした。
「だって、私は、ドズルの血を引いてるし」
ラクチェはうつむいて、ぽつりと言った。帝国と同じ血がラクチェの身体を流れる。それは今からではどうにもできないことだ。だが、それが今、ラクチェを苦しめているのは事実だ。ラドネイはどう考えているのか。
「そんなことを言ったら、セリス様はバーハラ王家の方ですよ。この軍にいる者は、帝国の奴らとは違う。セリス様もラクチェ様もイザークの戦士です」
ラドネイはきっぱりと言いきった。
その言葉にラクチェは、救われたような気分だった。
そういわれてみれば、セリスもグランベルの人間だ。他にもグランベルの血を引く兵士がこの軍にはたくさんいる。自分は何を悩んでいたのだろう。ラクチェの心は急に軽くなった。先ほどまでの狼狽していた自分が、情けなくなってきた。帝国の奴とは違う、イザークの戦士だ。イザーク人のラドネイが言うのだ。それなら大丈夫だ。
ラドネイに礼を言おうと口を開くと、それより先に
「ラクチェ、探したぞ」
後ろから声が聞こえた。振り返ると、スカサハが息を切らしながら立っていた。
「大丈夫か?」
心底心配そうな声でスカサハが言う。何をこんなに、スカサハは切羽詰っているのだろう。
「え、何が?」
ラクチェはスカサハに訊き返した。
「何が? じゃない。お前が変な風になって、部屋を飛び出すから」
怒鳴りつけるようにスカサハが言ってくる。
「ああ、ごめん」
そういえば自分は、スカサハの瞳の色がイヤで、逃げるように部屋をでてきてしまった。スカサハが心配しても仕方ないだろう。だがラクチェはもう、スカサハの瞳がイヤではなくなっていた。同じドズルの血が流れていると言っても、自分たちは帝国とは違うのだ。ラクチェは、いつものようにけろっとして、簡単に謝った。
「まあ、大丈夫ならいいけど」
やれやれと肩をおろしてスカサハが言った。心配をかけたのは悪かったと思うが、あからさまに迷惑そうにするなら、放っておいて欲しいとラクチェは思った。
「ラドネイにロドルバンのこと、謝っておけよ。説教は、ソファラを落としてからだ」
ラドネイの姿を見つけると、スカサハはそう言った。スカサハの話とは、ロドルバンのことのようだった。ロドルバン。その名を聞いて、はっとする。そうだ、ラドネイはロドルバンの妹だ。
「ごめん、ロドルバンを放っておいてきちゃって。本当にごめんなさい」
ラクチェは、ソファラの陣にロドルバンを置き去りにしてしまったことを、ラドネイに謝罪した。
「いえ、無事に戻ってきましたし、むしろラクチェ様を護れなかった兄が悪いんです。そのことは、きっちり叱っておきましたから、お気になさらず」
ラドネイはけらけら笑って言った。
ラクチェはロドルバンと共にソファラに偵察に行ったが、ガネーシャの南の平原にソファラ軍が陣を張っていたため、陣に乗り込んだ。その際、ロドルバンとラクチェは別々に捕まり、ラクチェは一人だけで逃げてきた。ラクチェが逃げる騒動で、ロドルバンも逃げだすことができたが、ラクチェはロドルバンを置いて、先にガネーシャに戻ってきてしまったのだ。だが、そのおかげと言っていいのか分からないが、ソファラの陣の様子をロドルバンが詳細に見てくれたので、同じようにガネーシャの南の平原に陣を張っていたイザーク軍ではなく、隙があるソファラ軍から攻めることになったのだった。
「それでは、スカサハ様、ラクチェ様、そろそろお休みになったほうが、よろしいと思いますよ」
「うん。ありがとう」
「ああ、そうするよ。ラドネイも見回りご苦労様」
ラドネイの言葉にラクチェとスカサハは頷くと、自室に戻ることにした。途中までスカサハと一緒だ。何か小言を言われると思ったが、スカサハは何も言わなかった。別れ際に一言、おやすみと言われただけだった。なので、ラクチェは部屋に戻ってからは、気分良く眠れた。
ガネーシャ南の平原の西側に陣を敷いたヨハルヴァのソファラ軍と、セリス率いる解放軍との戦いは、ラクチェが思っていたよりも早く火蓋を切った。
ラクチェは最前線で、剣を振るっていた。以前のような怯えはまったくないわけではないが、ラクチェは自分が戦わねばならない理由がある。それを果たすためには、今は立ち止まるわけにはいかない。
何人、斬ったのだろう。少し深く、敵陣に入り込んでしまっただろうかと思っていると、若い斧兵が現れ、ラクチェの近くにいた解放軍の戦士を瞬く間に斬り倒した。それを見たラクチェは、勇者の剣を握りなおすと、若い斧兵と向き合う。その顔には見覚えがあった。ヨハルヴァだった。
「ま、待てよラクチェ。俺はおまえとは、戦いたくないんだ!」
ヨハルヴァは相手がラクチェとわかると、慌ててそう言った。
「あたしは、お前たちとは違う。帝国は敵よ!」
そう言い放って、ラクチェはヨハルヴァの懐に飛び込むと、剣を躍らせた。剣撃に耐えられず、ヨハルヴァが後ろに崩れ落ちる。ラクチェは倒れたヨハルヴァの身体に馬乗りになった。そしてそのまま止めを刺そうと、短剣を抜く。ヨハルヴァの目をみた瞬間、なぜか涙が溢れてきた。涙はぽたぽたと、ヨハルヴァの顔にかかるほどだった。
「ラクチェ……すまねえ……」
ヨハルヴァがつぶやく。
それが何に対しての謝罪なのか、ラクチェには判らなかった。だが、その言葉を聞いて、ラクチェはためらいなく、ヨハルヴァの首を取ることができた。
大将がいなくなったせいか、ソファラ軍の攻撃はまとまりにかけはじめ、逃げ出すものも出てきていた。解放軍の勝利だった。