リボーから解放軍の討伐隊が出陣したという知らせが入った。セリスはこの討伐隊を迎え撃ち、一気にリボーまで攻め上がるという作戦に出た。
ラクチェは前線を任されているスカサハの隊にいた。今回はスカサハの隊の他に、ヨハンの率いる部隊が最前線に出ていた。帝国を裏切った者達が、今度は解放軍を裏切るかもしれない。それをセリスが考慮に入れて、ヨハンの部隊が前線に立っているのだとばかりラクチェは思っていた。ヨハン自らが志願したというのは、戦いの後に知った。
討伐隊の一人を斬りつける。勇者の剣が鮮やかに舞う。慣れたものだ。戦場にはまだ数回しか出ていないというのに、ラクチェの心は波一つない水面のように穏やかだった。いや、戦場にいるからなのだろう。余計なことは考えている暇はない。
帝国が憎い。
それだけを胸に、ラクチェは剣を振るっていた。
ラクチェの勇者の剣が翻る。何か言葉を発して、敵は倒れた。一瞬ラクチェに動揺が走るが、すぐに次の敵の攻撃に集中した。
何人斬ったのだろうか。そう思うと、解放軍の勝利の合図を告げる角笛の音が響いた。ラクチェはそれを聞いてから、剣を握ったまま、ヨハンのもとへ向かった。
ヨハンの部隊の者は、ほとんどがドズルの人間だ。解放軍に加わったからといっても、あまりイザークの人間とは上手くいっていないようだった。主があんな調子では、当然のことだろうと、ラクチェは思っていた。ヨハンの部隊の者は武器や戦力の確認を整然とやっている。他にも捕虜の収容をする者や、戦利品の確認をする者もいた。
部隊の一番後ろに行けば、ヨハンに会えると思っていたが、ヨハンの姿はそこにはなかった。いつもは頼んでもいないのに自分から寄って来るくせに、ラクチェが探している時はどこにいるか分からない。そんなヨハンに、ラクチェはいらついていた。それにこれ以上ヨハンの部隊の中をうろついているのは、決まりが悪い。既にヨハンの部隊の者たちは、ラクチェを不思議そうに見ている。確かに、あの日からヨハンはムリヤリ追いかけてくることはなくなったが、毎日朝と夜の挨拶だけはしてきていたではないか。用事があるときに、会えなくてどうするというのだ。ラクチェの苛々が最高潮に達した時だった。
「おお、ラクチェ。勝利の女神よ、私に会いたいと恋焦がれていると聞いて、韋駄天が驚くほどの速さで、貴方の許まで参上しましたよ」
いつもの大げさな文句を引き下げて、ヨハンが現れた。ヨハンは颯爽と馬から下りると、ラクチェの手を取った。
「誰があなたに恋焦がれるのよ! 私はどうして、帝国側に戻って解放軍を裏切らなかったか、訊きに来ただけよ!」
ラクチェは語気を荒くして、ヨハンに怒鳴った。大声を出したせいか、少しだけイラつきが消えた。
「おお、私の底のない深い愛は、未だ女神の審美眼に敵わないのですね。私が貴方に反逆の刃をつきつけることなど、決してありませんよ」
そう言って、ヨハンはラクチェの手に口づけをした。ラクチェはカッとなって手を振りほどくと、そのままの勢いでヨハンの頬をぶった。そしてヨハンに背を向け歩き出した。これ以上話しても、いつもの美辞麗句でラクチェの知りたい答えが得られるとは思えなかった。
「ラクチェ、待ってくれ」
ヨハンの真剣な声に、ラクチェは一瞬、足を止めかけるが、すぐにまた歩き出した。するとヨハンは、ラクチェの前にまわりこんできた。ラクチェは立ち止まるしかない。
「ラクチェ、私の部下達は、地獄の王の番犬のごとく、私に忠誠を誓っています。それだけは、信じてほしい」
真摯な瞳でヨハンが言った。
ラクチェには、ヨハンの言っている意味が分からなかった。なぜそこでヨハンの部下達が出てくるのだろうか。
ラクチェが考え込んでいると、ヨハンのところにお付きの者が来て、何か耳打ちした。
「勝利の女神よ、名残は惜しいが、私も体はひとつしかない身。これで失礼いたします。また後程ゆっくりと愛を語り合いましょう」
片目をつぶりヨハンはそう言うと、ラクチェの前から去っていってしまった。
ラクチェは釈然としない思いのまま、しばらくぼうっとそこに突っ立っていた。ヨハンが何を信じてほしいのか、ラクチェには分からなかった。
「それは、お前、ヨハンが裏切る気がないってことだろ」
そんなことも分からないのかと、レスターが大げさに呆れかえる。それにムッとしたラクチェが何か言い返そうとすると、デルムッドが
「まあ、難しい言い方だよな」
と口を挟んできた。ラクチェは思わず、言い返そうとしていた言葉を飲み込んだ。
今は野営の天幕の間で、皆が思い思いに夕食をとっている。ラクチェは久々に、デルムッドとレスターとスカサハの四人で食事をしている。本当はラナも一緒に、と思ったのだが、ラクチェたちが食事を終わらせないと、食べられないと断わられてしまった。それだけ忙しいということなのだろう。面倒をかけることはしないようにしなければ、とラクチェは考えた。
「なんでそう言われたんだ?」
スカサハがふいに口を開いた。
ラクチェは、ヨハンに言ったことをそのまま話した。それを聞いたデルムッドがそれはまずいという顔をする。デルムッドが顔色を変えたのをみて、ラクチェは自分がそんなにひどいことを言ってしまったのかと、考えた。いや、デルムッド達はヨハンをもう仲間だと言っていた。そこからして、ラクチェとの認識の違いがある。ラクチェはヨハンを仲間とか味方だとかは考えられない。
「だって、帝国の奴らが憎いからみんな戦っているんでしょう? 帝国の奴は帝国と戦う理由なんてないじゃない。それなのに仲間とか言えるほうがおかしい!」
ラクチェは三人の顔を見回しながら言った。三人は渋い顔をして黙り込んでいる。自分は間違っていない。ラクチェはそう断言できる自信があった。誰も反論してこないので、ラクチェはヨハンを解放軍から追い出すには、どうすればいいのかを提案しようと思った矢先
「オレは帝国が憎いから戦っているんじゃない」
スカサハがきっぱりと言ってきた。
「じゃあ、どうして戦うの?」
当然の疑問だ。憎い相手を殺すために戦っているのに、そうじゃないと言い切れる理由があるはずがない。ラクチェはスカサハに詰め寄った。
「それは、自分で考えろ」
冷たくスカサハが言った。
「私が何も考えてないって言いたいの?」
ラクチェはスカサハの言葉にカチンときて声を張り上げた。
しかし、スカサハは黙ったままだ。その態度が気に食わない。
「馬鹿にして!」
ラクチェは持っていたカップの飲み物を、スカサハにおもいっきりかけた。
「本当は自分だって、わかってないくせに!」
そうラクチェが叫んで、スカサハに掴みかかろうとした寸前
「ラクチェ、落ち着いて」
デルムッドがラクチェを抱きしめるようにそれを止めた。
「スカサハは、ラクチェをバカにしてるわけじゃないよ」
デルムッドがそう言いながら、ラクチェの背中をぽんぽんとあやすように叩いた。
「スカサハももう少し、言い方があるだろ」
厳しい顔をして、デルムッドが言う。それを無視するかのように、スカサハは無言で立ち去った。
「待ちなさいよ! まだ話しは終わってないわよ!」
ラクチェはそう主張して、デルムッドの腕の中で暴れたが、スカサハの後姿はどんどん遠くなるだけで、ラクチェの言葉は届かなかった。ラクチェはデルムッドの胸で、赤ん坊のように泣きじゃくった。
自分が一番正しいと言い切れるはずなのに、スカサハの言っていることのほうが正しく思えるのは、なぜなのだろうか。ラクチェの頭の中は糸という糸が幾重にも縺れて、何も分からなくなっていた。
ラクチェの目が覚めたのは夜明け前だった。すでに人が起き出していて、進軍の準備を進めている音が天幕の外から聞こえてきた。
ラクチェは、自分がいつ眠ったのだろうと思いながら、起き上がった。すると、ラナがラクチェの脇で、座ったまま眠っていた。そこでラクチェは自分が、スカサハと激しくやりあい、泣き疲れて眠ってしまったのを思い出した。多分、ラナはラクチェが心配で、夜通しラクチェのそばについていてくれたのだろう。ラナに迷惑をかけないようにと思っていたのに、悪いことをしてしまったと思った。
ラナを起こさないように、身支度を整えると、そっと天幕から出た。
「今日も小鳥達のさえずりが心地よい朝ですね、おはようございます。ラクチェ、我が愛しき女神よ」
ラクチェの気分は、天幕の外で待ち伏せしていた男のせいで、一気に下降した。そもそもこの男が全ての原因、諸悪の根源なのだから少しは気を利かせて、ラクチェの前に現れないという選択肢はないのだろうか。ラクチェは無視して、水場に向かった。
「聞きましたよ、ラクチェ。義兄上と喧嘩をなさったそうですね。それもこの私のせいで」
ヨハンがラクチェの後を付いてきながら、そう言った。
「申し訳ない」
ヨハンが頭を深く下げる。
そう思っているなら、もう私に付きまとわないで、と言おうかとラクチェは思ったが、この男には無意味だろうと思ったので、何も言わなかった。
「そこで、セリス様に願い出て、ラクチェ、あなたを私の部隊に配置換えすることにしましたよ。これでいつでも私が貴方を見守ることができます」
「な、なによそれ。どういうこと?」
ラクチェはヨハンが言ったことに驚いて、ヨハンに詰め寄った。
「義兄上と喧嘩していて、顔を合わせづらいでしょう。それならば、と思ったので」
ヨハンが優雅にお辞儀する。
何を考えているのだこいつは。ラクチェは心の中で毒づくと、セリスの天幕のほうに目的地を変えた。ヨハンは相変わらず、あとをくっついてくる。
セリスの天幕の前まで来ると、ここからは付いてこないで、とヨハンに吐き捨て、中に入った。
「セリス様!」
「ああ、おはようラクチェ。私の天幕に入るときは、声をかけたほうがいいよ」
でないと、オイフェに怒られるよ、とセリスはにこにこ笑ってそう言った。ラクチェはセリスの言葉に慌ててオイフェの姿を探したが、他のものより広い天幕の中には髪を下ろしたままのセリスしかいなかった。一安心したあとに、セリスに会いに来た理由を思い出す。
「どうして、私がヨハンの部隊に、入らなきゃならないんですか」
ラクチェはそう、がなった。
「だって、スカサハと一緒には、いたくないでしょ」
それは、確かにそうだ。でもだからと言って、よりによってヨハンの部隊になど、入れなくてもよいのではないのだろうか。ラクチェが言葉を発しようと、口を開いた瞬間、
「それに見張りにもなるからね」
セリスが髪をまとめながらそう言った。
「見張り?」
きょとんとしてラクチェはセリスの言葉を反芻した。
「そう。ヨハンが怪しい行動をとったときに、ラクチェがいればすぐに対処できるでしょ」
きゅっとセリスが髪留めを結ぶ。
そうか、見張り役だと考えれば、仕方ないことかもしれない。ラクチェが信用されているという証でもある。
「そうですか、わかりました。それならいいです。まかせてください」
ラクチェは力強く頷いた。
「うん。よろしくね」
セリスはにっこりと笑ってそう言った。
ラクチェは、一礼してからセリスの天幕から出た。ヨハンが案の定、待ち伏せしていたが、ラクチェは前ほど気にならなくなった。いつか、ヨハンの尻尾をつかんでやるという気持ちになっていたからだ。
「ラクチェ、セリス様は何とおっしゃっていたんだい」
ヨハンがそう訊いてきた。おそらく、ラクチェが機嫌よく出てきたので、不思議に思ったのだろう。
「しばらくの間は、あなたの部隊で戦うことになったわ」
ラクチェは出来る限り自然な笑顔をつくった。
「そうですか。これで、私の真摯なる熱い覚悟を君に見せることができるだろう」
ヨハンが顔を引き締めてそう言った。
ラクチェはヨハンの覚悟が、どういうことか、このときはまだ分からなかった。