ラクチェはふらふらと陣の中をさまよった。
気付くと、辺りにはあまり見覚えの無い天幕ばかりが張られている。皆が居る本陣からずいぶんと離れた場所まで来てしまったのか。一旦、足を止める。今日だけデルムッドとレスターの天幕に泊まらせてもらえばいいかな、とラクチェは考えた。だが、スカサハが一緒だったら困るなと思案していると
「失礼ですが、ラクチェ様ではないですか?」
そう声をかけられ顔を上げる。男が胸に手を当てラクチェを覗き込んでいた。四十代前半くらいだろうか。イザーク人ではない。男は、ラクチェの顔を見て、驚いたように目を開く。
「何か、悲しいことでもあったのですか?」
心配そうに男が訊いてくる。
ラクチェは慌てて、涙を拭うと、大丈夫ですと答えた。
「よろしければ、私の主の天幕でお茶でも飲みませんか?」
男はにこにこと柔和な笑みを浮かべる。
ラクチェは一瞬迷ったが、自分がどこにも行くところがないと思って、思わず頷いてしまった。
「おお、私の主もきっと喜ぶでしょう。では、失礼いたします」
そう言って男はラクチェの手首をしっかりとつかんだ。なぜこんなことをするのだろう。もしかして
「あなた、ヨハンの部下?」
「おや、ばれてしまいましたか」
ラクチェの予感は当たってしまった。どこにも行くところがないからといって、ヨハンの世話になるのは本意ではない。ラクチェは男の手を振り払おうとするが、男のほうが圧倒的に力が強くて、逃げられない。
「放して! 私は帝国の人間なんかと一緒にいるなんて、まっぴらごめんだわ!」
ラクチェがそう騒ぐと、男は鋭いまなざしでラクチェを睨み
「私たちは、もはや帝国の人間では、ありません。皆、故郷を捨て、家族を捨て、ここにいるのですよ」
怒気を孕んだ声でそう言った。
「簡単に捨てられる故郷でいいわね。私たちの国を荒らすだけ荒らして。分が悪くなったから解放軍についただけでしょう。解放軍が負けたら、また帝国に戻ればいいだけですものね!」
ラクチェも負けじと言い返した。
男はラクチェの言い分に、衝撃を受けているようだった。ラクチェのつかまれている手首が痛い。男がかなり力をこめているせいだろう。
「ラクチェ様、私はひどくがっかりしています。ヨハン様が心にお決めになった女性が、どんな素晴らしい人なのだろうと、お会いして、お話しするのが、このじいの楽しみでした。ですが、ですが、ラクチェ様がそのように考えておられたとは……じいは、失望いたしました」
男はうなだれた。
「そう。ならヨハンに、二度と私に近づかないほうがいいって、言っておいてちょうだい」
ラクチェは男の腕を振り払って、ここから立ち去ろうとしたが、男は手を放そうとはしない。ラクチェは何度も、つかまれている腕を振り放そうとするが、男の手がはなれる気配がいっこうにない。
「ちょっと、放してよ!」
ラクチェは痺れを切らせて、怒鳴った。
「いえ、ヨハン様には、ラクチェ様がいらっしゃることがあれば、丁寧におもてなしするよう、仰せつかっておりますので、そういうわけにはまいりません」
男はラクチェの手首をつかんだまま、また歩き始めた。ラクチェは抵抗するが、男の力には敵わない。しかも騒ぎを聞きつけて、男の他にもヨハンの部下達がどんどん集まってきて、ラクチェを囲んで引きずりはじめた。ラクチェは結局、ヨハンの天幕の中まで連れてこられてしまった。
だが、天幕の中にはヨハンはいなかった。おそらく作戦会議に出ているのだろう。
それでもおかまいなしに、ヨハンの部下達はラクチェを強引に椅子に座らせると、お茶を出した。
「これでおもてなしって、帝国はずいぶんと野蛮なのね」
ラクチェは憎まれ口を叩いた。ヨハンの部下達に嫌われれば、ヨハンに言い寄られることもなくなるかもしれないと考えたからだ。
「いえいえ、帝国はもっと卑屈なおもてなしですよ」
男はにこにこ笑って答えた。
ラクチェはそれにふてくされて、お茶を一気飲みする。思っていたより、お茶は熱くて、のどがひりひりしたが、ラクチェは平気な顔をしていた。
男はすました顔で、ラクチェのお茶を注ぎ足した。
ラクチェは、またお茶を一気に飲んだ。今度は舌をやけどしたようだった。だが、ラクチェはなんでもありませんという顔をした。
男は、今度は声をひそめて笑っている。
「帝国のお茶ってぬるいのね。まともに火もおこせないんじゃないの」
ラクチェはムッときてそう言った。
「そうですね。帝国のお茶はぬるかったですね」
男はうんうん頷く。
ラクチェは何を言い返そうかと考えていると、ヨハンが作戦会議から戻ってきた。
自分の天幕にラクチェが居るということに、ヨハンは喜びを顕にした。
「おお、我が愛しき女神よ。貴方のほうから私のもとへいらしてくださるとは、なんという幸運。エレブの小さな勇者も、このような幸運に恵まれたことはないでしょう」
ヨハンはいつもの装飾過多な口上も忘れない。
ラクチェがげんなりしていると、先ほどの男がヨハンの傍らに寄り添い、何かヨハンに耳打ちをした。ヨハンは何度か頷くと、ラクチェと二人きりにしてくれと、人払いをした。ラクチェは逃げるのはあきらめたほうがよさそうだと、観念した。
ヨハンは跪いて、ラクチェの手をとった。
「ラクチェ、貴方の心に冷たき雨を降らしている重い雲を追いやって、虹の橋を架ける手伝いを、私にさせてくれないだろうか」
ヨハンの手はあたたかくて、大きかった。それになんだか安心して、ラクチェは先刻のラナとのやり取りを思い出してしまい、涙ぐんだ。
「……ラナに嫌われちゃった」
そう、ぽつんとラクチェは呟いた。言葉にすると、その事実はラクチェがひとりで受け止められるような、軽いものではなかった。胸が苦しくなってくる。涙が溢れてやまない。
「蒲公英の君が、ラクチェを嫌うことなどない」
たんぽぽのきみ。ああ、ラナのことを言っているのか。ラクチェは理解するまで数秒かかる。もっと分かりやすく言ってくれないものか。ラクチェは、ヨハンがいつもの調子なのが、少しおかしかった。それになんだかほっとして、次の言葉もするりと出てきた。
「でも、セリス様もシャナン様も盗られちゃう」
「……百合の君と向日葵の君にかい?」
「ゆり? ひまわり? ヨハン、誰のこと言ってるか分からないわ。花の名前で呼ばないで」
ラクチェはヨハンが自分以外の女の子のことを、花の名前で呼ぶのがなんだかイヤだった。
「ああ、すまない。ユリア殿とパティ殿のことだよ」
ヨハンは申し訳なさそうに肩をすくめると、二人の名を言い直した。ラクチェはそれに頷く。
「きちんと話し合ったことはあるかい?」
優しくヨハンが訊ねてくる。
「……パティとなら」
ラクチェは少し考えてから言った。そういえば、ユリアとはまともに口をきいたことがないなと、思い当たる。自分からユリアを遠ざけていたのか。
「それならば、ユリア殿だけでなく、セリス様やシャナン王子とも話してみなければ分からないのではないかい?」
ヨハンはラクチェの涙を拭いながら言った。
「話し合っても、分からなかったら?」
それどころか、セリスがユリアを好きだと分かったら。ラクチェは不安な気持ちでヨハンに訊ねた。
「正直に気持ちを伝えるために言葉はあるんだ。何がいい、悪いではなく、きちんと言葉にしなければ、気持ちは伝わらないのだよ。この私のように」
最後にヨハンは両腕をばっと広げた。確かに、ヨハンがラクチェを好きだという気持ちは、いやというほど伝わってきている。それがおかしくなってきて、ラクチェは笑顔を浮かべた。
「ああ、ラクチェ。君の笑顔はどんな花も歓声をあげほころぶ太陽のようだ。その笑顔があれば、どんな者も眩しすぎて、君に好意をよせるだろう」
「ありがとう、ヨハン」
ヨハンなりにラクチェを応援してくれているのだな、とラクチェは感じたので、礼を言った。
「あと、お願いがあるんだけど」
「なんなりと」
「今日はここに泊めて」
ラクチェはヨハンのところに居れば、安心だと思えたので、そう頼んだ。今はまだラナに会えそうにない。
「それは、ラクチェ、どういうことだい」
ヨハンがぎぎぎ、と音がでそうな感じで首を傾けた。
「え、ここで寝るってことだけど?」
「ラクチェ、気持ちは同じだが、いきなりそれは、いささか早すぎるのでは……」
ヨハンが困ったように、咳払いをする。
「まあ、確かに寝るにはかなり早い時間よね。私と手合わせしてくれるような人がいればいいんだけど」
ラクチェが悩んでいると、ヨハンがこう言った。
「それでは、恋人同士、私と愛の語らいをしようではないか!」
「なんであたしがヨハンと恋人同士なのよ」
ラクチェはヨハンの申し出をばっさりと断わった。
「今日はあんたを信用して、ここに泊まるだけよ」
「ラクチェ、今、この愚かな私を信用していると、言葉をつむいだのかい?」
ヨハンが目を輝かせている。
「え……」
ラクチェは自分で言ったことに、驚きを隠せなかった。信用。ヨハンは許せない帝国の人間ではなかったのではないか。それを信用するなんて。さっきもヨハンの部下に、ひどい罵声をあびせてしまったというのに、ヨハンを信用しているなんてどの口が言うのだ。
だが、ラクチェはヨハンのそばにいると、不思議と安心する自分がいると、わかっていた。ヨハンは大丈夫だ。ラクチェのことを好きだと言って、大事にしてくれる。それに、自分の父親を殺してまで、解放軍に参加している。それは、イザークの民への罪ほろぼしとしては、まだ足りないと思う者もいるかもしれないが、ラクチェには充分だと感じられた。ヨハンはもう、ラクチェにとって信頼するに足る人になっていた。
では、ヨハンの部下達はどうだろう。ラクチェは先ほどの男の言葉を思い出していた。「故郷を捨て、家族を捨て」確かそう言っていた。裏切るとはそういうことなのだ。ラクチェは自分が言ったことを激しく後悔した。帝国の者だったからといって、差別して、本当の言葉に耳を傾けずに、罵声をあびせて。それでは、イザークを蹂躙していた帝国の奴らと変わらないではないか。あんなあたまから疑ってかかるような、酷いことを言ってしまったのだ。許してもらえないだろう。でも、誠意を見せなくては。
「ヨハン、さっきの男の人、呼んでちょうだい!」
「さっきの男とは? 私の軍は男ばかりだが」
困ったようにヨハンが言う。
何か特徴があれば、ヨハンにも分かるのかもしれないが、あいにく名前もきいていない。そこまで考え、ラクチェは思い当たった。
「自分のことを、じいって言ってた男の人よ」
「おお、じいの事か」
ヨハンはそういうと、天幕の外に声をかけた。すぐに先ほどの男が、失礼しますと、入ってくる。
「あの、さっきはごめんなさい」
ラクチェは男のもとに駆け寄ると、頭を勢いよく下げた。
「さっき言ったこと、全然思ってもいなかったって言ったら、嘘になるけれど、ヨハンは信じても大丈夫な人だってわかったから、きっとあなた達も信じることができる人たちだと思い直しました。だから謝らせてください」
ラクチェは頭を下げたまま、一気にそう捲くし立てた。そしてもう一度
「ごめんなさい」
そう謝罪した。
ラクチェは相手の反応が怖くて、頭をあげられずにいた。
「どうか、顔をあげてください、ラクチェ様」
男の優しげな声に、ラクチェは恐る恐る頭をあげた。男のやわらかな笑顔が視界に入る。
「ヨハン様の言っていたとおりの方ですね」
男は嬉しそうにヨハンにむかって言う。そうだろうと、ヨハンが頷く。
「それに、その真っ直ぐなご気性、レックス様によく似ていらっしゃる。血とは不思議なものですね」
男は昔を懐かしむかのように言った。
「父上を知っているの?」
ラクチェは驚いて訊いた。
「ええ。自分の信じる道を最後まで歩むことができる。そんな方でしたよ。意地っ張りな部分もありましたがね。ちょうど先ほどのラクチェ様みたいに」
そう言われて、ラクチェは少し恥ずかしくなって下を見た。確かにかなり意地を張っていた。
「じいは懐かしくなりましたよ、ラクチェ様」
そして男はもう怒ってなどいないと笑った。ラクチェはそのことに感謝した。
それからラクチェはじいから、父であるレックスの子どものころの話を、日が暮れるまで話してもらった。
夜になり、ラクチェとヨハンは床についた。ラクチェはじいから聞いた父の話で、かなり気分がよくなっていた。ラナとのことが心の隅に引っかかっていたが、ヨハンの部隊の陣営にきた時に比べると雲泥の差だった。ヨハンが言っていたように、暇ができたらセリスたちと話してみようとも、決心していた。
「ヨハン、起きてる?」
暗闇の中、ヨハンに声をかける。
「な、なんでしょう?」
ヨハンが上擦った声をあげる。眠りかけていたのかもしれない。ちょっと悪いことをしたな。と思いながらもラクチェは言葉を続けた。
「ありがとうね。それから」
ラクチェは一呼吸置いてから
「ごめんなさい」
そう言った。
今まで色々言ってしまったことや、やってしまったことに対して、ラクチェはヨハンに謝った。今日は謝ってばかりだなと思った。身から出た錆なのだからしかたないのかもしれない。
ラクチェは、帝国の奴らの中にも、まともな人がいたということに気がついた。なんでも一緒くたに扱うのは、よくないなと考えを改めた。そのきっかけになったヨハンに感謝したので、ありがとうとも言ったのだ。
自分が前と比べて、かなり安定してきているのも、ヨハンのおかげに思えた。こんなふうに安定していれば、ラナとも、もう一度話し合えるかも。そう考えているうちに、ラクチェは眠りに落ちてしまった。