夜明け前、ラクチェが目を覚ますと、ヨハンの姿は天幕の中になかった。意外にヨハンが早起きなことに、ラクチェはちょっとびっくりした。ヨハンが戻ってくる前に、身支度を整えようと思った。ヨハンの天幕には、ヨハンが使っていると思われる鏡と櫛があったので、それを使わせてもらう。
一通り身支度を終えたところで、天幕の外から声がかけられた。
「ラクチェ、もうお目覚めですか?」
ヨハンだ。
「ええ、もう起きてるわよ」
ラクチェがそう返事すると、天幕にヨハンと共にラナが入ってきた。ラクチェは思わず身構える。ラナとちゃんと話し合おうという気持ちはあったが、まだ気持ちの準備はできていなかった。何と言おうかとラクチェが思案していると
「ごめんね」
ラナが頭を下げる。ラクチェはなぜラナが謝るのかわからず、びっくりした。
「ラクチェ、私のこと心配してくれていたのに、あんな言い方ってかったわよね。ごめんなさい」
ラナは頭を下げたままだ。多分、ラクチェの言葉を待っているのだろう。ラクチェはラナの後ろに立つヨハンを見た。ヨハンは微笑んで頷いた。
「謝らなきゃいけないのは、私のほうよ。ごめんね、ラナ」
ラクチェはラナにそう言った。すると、ラナは顔をあげた。ラナは今にも泣き出しそうな顔をしている。それを見たラクチェは、ラナを抱きしめた。
「ごめんね」
「私のほうこそ」
「ううん、私が悪かったのよ」
ラナとラクチェはお互いに涙をながしながら、謝り合った。
ラクチェはラナに嫌われていなかったということに、心から安堵した。ヨハンが言っていたとおりだった。ラナはラクチェを嫌いになんてなっていなかった。ほんのちょっと、言葉の行き違いがあっただけのことだった。
「ラナ、私ね、シャナン様がパティに盗られちゃうのがイヤなの。だからきっとラナもセリス様が盗られちゃったらイヤなんじゃないかと思って」
ラナはラクチェの言葉にうん、うん、と相槌をうって聞いてくれている。その顔は、いつもの聖母のようなラナだった。ラクチェはなんでも許してくれると思って、言葉がするすると出てきた。
「だからラナがセリス様とユリアのことで悩んでいるなら、相談して欲しかったの。でもラナは平気だって言ったから。どうして平気なの?」
「それはね、セリス様が私を選んでくれなくても、私はセリス様が好きだからよ」
ラナはとても明るい声で言った。ラクチェはラナの言ったことにびっくりする。ああ、ラナはなんて強いんだろう。そうラクチェは思った。自分の想いが報われなくてもかまわないと笑うラナは、とても綺麗だった。
「私が男だったら、ラナのこと恋人にして、大事にするのに」
セリス様はこんないい女を逃してしまうなんて、なんて馬鹿な人なんだろうと思った。
「ふふ。ラクチェや皆がいてくれたから、立ち直れたのよ。ありがとう」
ラナはそう言って、でもセリス様とユリアの話を聞くのはまだ辛いの、と笑った。その笑顔は、痛々しかった。ラクチェはその顔を見て、自分が執拗にセリスとユリアのことをラナに話したのは、ラナを傷つける行為だったんだと、気がついた。
「ごめんね、ラナ。ラナの気も知らないで」
ラクチェは心から謝罪した。
「いいのよ。そのかわりお願いがあるの」
ラナがこういう風に話をきりだすときは、たいてい難しいお願いだ。ラクチェはちょっと緊張してラナの言葉を待った。
「ユリアと仲良くしてちょうだい」
「なんだ。そんなことでいいの?」
ラナがかなり真剣な眼をして言うので、何かと思えば、ユリアと仲良くすることとは。ユリアとは一度、ゆっくり話そうと昨日決めたばかりのラクチェには、難ということではなかった。
「えっ、本当? ラクチェ」
ラナがラクチェの反応に目を丸くする。
「うん。ヨハンに言われたの。ちゃんと話し合ってみなければ分からないって。だから、ユリアを避けるのやめようと思ってたから、ちょうどよかった」
「ふーん。ヨハンさんがねえ」
ラナが意味深長に言う。
「あ、べ、別にヨハンのこと好きになったとかじゃないからね!」
ラクチェは語気を荒くして言った。そこまで言って、ヨハンの姿がいつの間にかなくなっているのに気がつく。どこにいったのだろうか。
「そろそろ、戻らないと。ラクチェも朝食前の鍛錬があるでしょ?」
ラナが天幕から出ようとする。
「うん。でも、ヨハンに一言、挨拶しておきたい」
ラクチェの言葉に、ラナがにやにやする。そんなんじゃないのにな。とラクチェは恥ずかしくなる。
天幕を出ると、そこにはヨハンがじいを伴って立っていた。ヨハンは二人の姿を見ると、いつもの口上を始めた。
「おお、なんと麗しい蒲公英の君と、女神よ。語らいは終わったのですか?」
ラクチェは今日のヨハンの言い方になんだか引っかかりを覚えた。なんだろう。ラナは普通に返事をしている。帰ることも告げたようだ。でもラクチェは何か釈然としないでいると、
「では、途中までおおくりいたしましょう、蒲公英の君」
「それよ!」
ラクチェの大声に、三人がびっくりして、ラクチェを見る。
「ヨハン、女の子を花の名前で呼ぶのやめてって言ったでしょう」
ラクチェはヨハンに詰め寄った。
「あ、ああ、女神のおっしゃるとおりに」
ヨハンはラクチェの勢いに押されるように、返事した。それによし、とラクチェは頷く。
「では、我が女神とラナ殿、途中までおおくりしましょう」
ヨハンはラクチェの手をとると、ゆっくり歩き出した。
ラナがびっくりしたような顔をしてラクチェを見た。
「なに? ラナ」
「ううん。ヨハンさん、よかったですね」
ラナは首をふって、ヨハンに笑いかけた。ヨハンはそれにふっと目を伏せた。なんだか、そんなやりとりをされるのは、気に入らない。
「どこまでおくってくつもりなの」
ラクチェは不機嫌に言った。
「おお、女神よ、どうかこの不粋な男に、祝福の笑みを与えてください」
「ちゃんと質問に答えなさいよ」
ラクチェは苛々してそう言った。
「女神とラナ殿を守る、騎士の許までですよ」
ヨハンは、はははと笑った。誰よ、騎士って、とラクチェが思っていると、イザーク軍とヨハンの部隊の天幕のちょうど境目になるあたりに、デルムッドがいた。
「デルムッド、出撃の準備はどうしたの?」
ラナが驚いて、デルムッドのところへ駆け寄る。
「ああ、ちょっとだけ抜け出してきたんだ」
デルムッドが少し困ったように笑う。真面目なデルムッドらしくない。
「抜け出してきちゃダメじゃない。デルムッドは隊長でしょ」
ラクチェは自分のことは、棚に上げて言った。デルムッドはごめんと謝る。
「もう、ラクチェのばか。デルムッドはラクチェのこと、心配してきてくれてるのよ。そんな言い方ないじゃない」
ラナに怒られる。
「いいんだよ。二人が仲直りできたなら。ラクチェも元気そうでよかったよ」
デルムッドはそう言った。
知らぬ間にデルムッドにまで心配をかけてしまったのか。それは悪いことを言ってしまった。ラクチェはデルムッドにごめんと言った。それを聞いたデルムッドは意外そうな顔をしたあと、よしよしと、ラクチェの頭を撫でてくれた。でもそれが恥ずかしくなって、ラクチェはデルムッドの手からすぐ逃げた。
「じゃあ、戻ろうか。ヨハン、ありがとう」
デルムッドがヨハンに軽く頭を下げる。
「いえ、女神をよろしくお願いします」
ヨハンが優雅にお辞儀する。
「またね、ヨハン」
ラクチェはヨハンにそう言った。
「おお、再び貴方と逢える日を心待ちにしていますよ。離れていても、私の心は常に女神のそばに」
ヨハンが嬉しそうに返事する。
そのやりとりを見ていたラナが、にやにやしている。デルムッドも不思議そうにラクチェとヨハンを見比べている。
「早く帰りましょ」
ラクチェは恥ずかしくなって、早足で歩き出した。
「二人とも、早く」
そう言ったとき、ラナとデルムッドは既にラクチェの隣を歩いていたが、ラクチェは振り返って、そう言った。振り返ればヨハンの姿が見れるかと思ったからだった。ヨハンは穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。ラクチェはそれがちょっとだけ嬉しかった。
三人はイザーク軍の天幕のほうへ歩き始めた。他愛ない話をしながら歩く。
「なんだかこうしてると、昔を思い出すわね」
ラナがデルムッドのほうを見て言った。
「ああ、ラクチェが家出して、帰ってくるときの」
デルムッドがぽんと手をうつ。
ラクチェはそんな昔の恥ずかしい思い出話をされるのは、ちょっといやだったが、二人が楽しそうに話し始めるので、黙って聞いていた。
「みんなで必死になって探したね」
「デルムッドは見つけるの上手かったわよね」
そうなのだ、デルムッドはラクチェの隠れる場所をほとんど把握していた。
「どうして、私の居場所がいつもわかったの?」
長年の――といっても、今思いついたのだが――疑問をデルムッドにぶつけてみた。
「ラクチェは絶対、スカサハに最初に見つかるのを嫌がってたから、泳げないスカサハが近づこうとしない小川の辺りに、よく隠れていたのに、気がついていただけだよ」
「そういわれてみると、そうね。デルムッド、そんなこと気付いてたんだ」
ラナが関心したように言う。
ラクチェは、自分の行動がそんなに単純だったのかと、ちょっと恥ずかしくもなったが、デルムッドがそこまでラクチェの行動様式をわかっていたのかと思うと、それは嬉しかった。
ラクチェはラナの手を握った。
「どうしたの?」
ラナが、また甘えるの? しょうがないわねと、いった風に言う。
そしてラクチェは、空いているほうの手で、デルムッドの手を握った。デルムッドは、分かったぞ、という顔をした。
「いくよ、ラナ」
デルムッドがそう声をかけると、ラナも合点がいったらしく、わかったわと頷いた。
「せーの」
ラナとデルムッドが力いっぱいラクチェを引きずって、走る。
子どもの頃、家に戻るのを嫌がるラクチェを、デルムッドとラナがよく手を引いて走っていた。走っているうちに、ラクチェの機嫌が直るからだ。
今になっては、ほとんどデルムッドが、ラクチェとラナを引っ張っているようなものだった。もう子どものころのようにはいかない。でも、ラクチェが一番前を走ることはできるはずだ。ラクチェはデルムッドを追い抜こうと、足に力をこめた。
「まって、そんなに速く走れないわ」
笑いながらラナが言う。
「これで、最後にオイフェ様に怒られれば、完璧だ」
デルムッドも声をあげて笑っている。
笑いながら走って、ラクチェたちの天幕の前まで着いた。
天幕の前にはオイフェが難しい表情をして、立っていた。三人の姿を見つけると
「こら! お前達、自分の持ち場に早く戻らないか。それから、陣の中で大騒ぎしない!」
そう叱ってきた。
「もう、デルムッドが変なこというから、本当になっちゃったじゃない」
ラクチェは小声でデルムッドをつつく。
「でも、本当に昔みたいね」
ラナが顔をほころばせた。
「ほら、デルムッドとラクチェは出撃準備。ラナは食事の用意。わかったら、すぐ行動する」